唇に触れる。

濡れた柔らかさに恥ずかしくなる。

いつもより腫れぼったい。

何かしたのかと思ったけど、シンジの唇を思いきり吸ったことを思い出して納得。

首筋にキスマークが残るなんて、話の中でしかないことって思っていたけど、自分で体験してみるとありそうなシチュエーション。

 

シンジの唇は、アタシが思ってたよりずっと柔らかかった。

ずっと甘くて、心地よかった。

絡み合う舌の感覚は他のものに例え難いものがあって、それだけに淫靡な妄想すらかきたてられる。

 

抱きしめた身体は女のアタシでも吃驚するくらい細かった。

折れてしまいそうな腰だったけど、その骨格も匂いもオトコだった。

そのギャップに一層どきどきした。

 

「泣かせちゃった」

一番やってはいけないことだったのに。

アタシにしては驚くほど慎重に進めていたのは、嫌われないためだったのに。

知恵の実を食べたために全てを捨てたイヴと同じ。

 

聖書のイヴは楽園を追い出された時、知恵を得たことを後悔したんだろうか。

それとも、知恵を得る事はもっと大事なことと納得したんだろうか。

……知恵を得なければ、そもそもそう言ったことを疑問に思わなかった可能性もあるけど。

イヴは知恵を手に入れたけど、アタシは何も手に入れられなかった。

自業自得とは判っていたけれど、泣いてしまいたかった。

泣いて、何もかもなかったことに出来たら良かったのに。

一瞬そう思って、身勝手な考え方に幻滅した。

アタシらしくない。

起こってしまったことなんだから、もっと前向きに考えないと。

ぱんぱんと叩いた頬は、夜風に曝しても一向に冷える気配がなかった。

 

 

 


 

tears

- the reason for your tears-

 


 

教室に入って最初に感じたのは違和感。

騒めきの中に欠けたものがあった。

窓から差し込む光も風も、幾つかのグループで交わされる談笑も、廊下から響く。

何が欠けているのか判らなかったけど、鞄からペンケースを取り出すときに気がついた。

シンジがいない。

いつもだったらアタシより先に来ていて、音楽を聞きながら本を読んでいるのに。

でも、同時にほっとした。

どんな顔をしたら良いのか、何を言えば良いのか、判らなかったから。

 

ホームルームが始まって、ミサトが言った。

「シンジ君はお休み

体調不良、ですって

皆も気をつけなさいね」

出席簿に何やら書き込むミサトを横目に、いつもの曖昧な笑顔を捜す。

窓際の席にシンジがいない。

それだけで、こんなにも寂しい思いをするなんて。

溜息が漏れる。

隣の席のヒカリと目があって、もう一度溜息が漏れた。

 

 

 

放課後になって、真っすぐ帰るのも躊躇われた。

いつもの癖で音楽室に足が向かう。

聴こえてくるのはピアノソロ。

単音がばらばらに聞こえてきて、階段を昇るたびに音が旋律に、旋律が曲に昇華する。

ベートーベンのピアノソナタ、月光。

この曲はアタシでも知ってる。

やっぱりいつもの癖で、音楽室手前で立ち止まる。

裏庭に面した窓を開けて、湿気の混じる空気を呼び込む。

 

幻想的な第1楽章が終わり、余韻が跡切れる前に軽やかな第2楽章が始まる。

『月光』っていう名前は第1楽章には相応しいけど、第2第3楽章には相応しくないっていつも思う。

第1楽章が雲の上に浮かぶ月をイメージしているなら、第2楽章は広がる草原の彼方に浮かぶ月のイメージ。

主役は、少なくとも月ではない。

第3楽章になると、穏やかな月のイメージなんて欠片も残ってない。

荒々しいっていうのとは違うけど、勢いが違う。

波に乗ってしまった様に、連続した旋律が駆け巡るように。

 

ここへ来るたびに思う。

シンジは、いつものシンジとチェロを抱くときのシンジ、2つの表情を持っている。

普段はあんなに表情が浅いのに、ここで感じるシンジは誰よりもたくさんの表情を持っている。

アタシも何か楽器ができたら、シンジを魅惑できるくらいたくさんの表情を持てるのかな。

そう何度も思いながら、結局実行に移されたことはない。

いつだったか、シンジがチェロを始めるって言った時から変わらない。

自分から一緒にいられる時間を減らすなんて、とてもできなかったから。

 

ぼーっとピアノの音色に耳を傾けつつ、吹き込む風を感じる。

爽やかというには温度も湿度も高い空気だけど、熱量の飽和した空気をかき回すだけの効果はある。

乱れる髪をそっと押さえて、溜息をひとつ。

意識を窓の外に移していたから、ピアノの旋律が跡切れたことにも気づかなかった。

がらりと乾いた音がして、扉が開く。

「惣流さん」

「なによ」

思わず攻撃的な目つきで見返してしまって、少しだけ後悔する。

できたら関わりたくない。

シンジを通さずに渚カヲルと接触したことなんて、これまでなかったから。

「よければ、ちょっと話がしたいな」

「お生憎様

アタシにはないわ」

踵を返そうとしたところで、もう一言がアタシの動きを止める。

「シンジ君のことなんだけど」

1番出されたくない話題だけど、今のアタシよりもシンジの近くにいるコイツが言うんだから、アタシにとって避けられるものじゃない。

アタシが断らないと判ってか、口元に笑みを浮かべたままで見つめてくる。

「なに?」

アタシの返事に満足したように、コイツは口を開いた。

ゆっくりと。

「シンジ君のこと、何か聞いてない?」

「体調不良って

ミサトが言ってたわ」

真っ直ぐにコイツの目を見る勇気がなくて、目を逸らしてしまう。

「そっか

……季節の変わり目だしね

惣流さんも気をつけて」

さらりとそんなことを言ったコイツに背を向けて、アタシは音楽室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、何事もなかったようにシンジは学校に来た。

「おはよう」

「……おはよう」

言葉を交わすことはあっても、決してアタシと目を合わせてくれなかったけど。

 

普段なら、何気なく視線が絡んで、お互い何も言わないから気まずくて、視線が解れていたのに。

今日に限って、まだ1度も視線が絡んでいない。

湿気で癖が取れない髪のように、気になってしかたがない。

 

「碇君と喧嘩でもしたの?」

お弁当をつつきながらヒカリが尋ねる。

「ん〜

喧嘩になってない

一方的にアタシが嫌われてるだけ」

ずずっと紙パックの林檎ジュースを啜った。

教室の片隅で、お昼の時間。

気の早い男子は外でサッカーなんかやってて、その歓声がここまで届く。

陽射しの強い窓際を避けて、風通しの良いアタシの席。

気温も湿度も高いけど、この教室は風通しが良いから、それほどしつこくない。

「私の主観かもしれないけど」

ヒカリはそう前置きして、箸を置いた。

「碇君って、アスカとの『距離の取り方』が解らないんじゃないかな?

誰にでも同じ様に接しているけど、アスカの時だけ『ちょっと』違うもん」

にっこりと微笑んで、「ごちそうさま」と手を合わせる。

「違うって……どう違う?」

思わず身を乗り出したアタシに、ヒカリは指を突きつける。

「言葉にするのは難しいんだけど……同じ『距離をとる』っていう行為でも、『近づき過ぎるのが怖いから』って感じ?

ホントはもっと近くにいたいけど、怖いから距離を取ってしまう、みたいな」

自分の表現に満足したように、ヒカリは腕組みして頷いた。

「アスカみたいにね」

最後の一言がぐさりときた。

 

「私、不思議なんだけど」

ヒカリは続けた。

「どうして碇君に関してだけ、あんなに臆病なの?」

「解んない」

これは本音。

風がアタシとヒカリの髪を揺らした。

きょとんとした表情のヒカリは、不思議そうな表情をした。

「きっかけがあったら?」

「これまでなかったもの」

あっさりと返して見せたけど、嘘だってばれてる。

告白できたはずだし、アタシに勇気や行動力があったら、恋人同士だったかも知れない。

けど、そうはならなかった。

理由はひとつ。

「シンジを逃しちゃったら、次にシンジと同じくらい好きになれる人がいないって解ってるから」

だから慎重になるし、臆病にもなる。

「解らないわねぇ

だって、未来のことなんて解らないじゃない?

もっと好きになれる人が出来る可能性、考えないの?」

「そんな可能性、ないもの

ずっと幼なじみやってて、シンジのこと見てきたから

毎日毎日、少しずつシンジの新しいところ見つけてる

新しいシンジを知って、また好きになってるもの

こんなに『好き』を積み重ねてるんだから、他の人の入る隙間なんかないでしょう?」

 

「解った」

ヒカリはぽんと手を叩いた。

「これでもかってシチュエーションを準備してあげるから、そこで告白しちゃいなさいよ」

「え?」

空になった紙パックが、手から落ちる。

「それなら良いでしょ?

中途半端なシチュエーションで告白して撃墜されるより、絶対確実なシチュエーションで落としてしまえばこっちのものなんだから

大丈夫、私にまかせて」

どんと胸を叩くヒカリが頼もしい。

もっとも、その知識は少女マンガかどこかから入手したモノだと思うけど……この場では、触れない方が華。

 

 

 

 

「そのシチュエーション、ね」

ヒカリに頼まれて、放課後の図書館に来ていた。

赤い夕陽が差し込む時間ともなれば、ここにいる生徒はアタシともうひとりだけ。

偶然じゃない。

ヒカリのおぜん立てによるものだし。

「アスカ?」

アタシがいることが予想外だったように、シンジはぽかんと見つめている。

窓際に立つアタシの表情は、逆光で殆ど見えていない筈。

吹き込む風が髪を靡かせた。

「涼しいから、こっち来ない?」

声を掛けたアタシに、シンジはうなずいた。

 

閲覧机に並んで腰かけて、静かに外を眺めている。

ちらりとシンジをみると、僅かに細めた目が潤んでる。

手を伸ばせば届く距離。

これまでは、手を伸ばさなかった。

だけど今日は。

「シンジ」

声を掛け、こちらを向いたところで、その胸に飛び込んだ。

お互い机に座ったままだったから、机の上でシンジを押し倒してる。

心臓がどくどく言っているのが聴こえる。

もう、それがアタシの心臓なのか、シンジの心臓なのか、よく解らない。

「好き

ずっと好きだったし、これからも好き

アタシのこと、幼なじみじゃなくて恋人として見てくれない?」

真っ直ぐにシンジの目を見て、それだけ。

先に視線を逸らしたのはシンジだった。

「ごめん

アスカのこと、嫌いじゃないけど……そういうふうに考えたこと、なかったから」

「じゃぁこれから考えてくれれば良いから

だから、もう逃げないでよ

アタシ、きちんとシンジに言ったよ?

もう、逃げてないんだから……だから、シンジも嫌いなら嫌いって、言ってよっ!」

言いながら涙が出てきた。

どんっと、シンジの胸をたたく。

いつものアタシらしくない、たたきかた。

もう一度と思ったら、その手をシンジに受け止められた。

「……ごめん」

もう一度謝って、シンジはアタシをそっと押しのける。

寂しそうな表情を見せて、そのまま図書館から出て行った。

「シンジのバカ」

アタシの泣き声だけが、いつまでも響いた。

夕陽が落ちて、暗くなるまで。

 

 

 

 

それからのことは、憶えてない。

翌朝起きたら、腫れぼったい目をしていたから、思う存分泣いたんだと思う。

こんな顔で学校に行きたくないって思ったけど、ここで引いたら負けだとも思った。

氷嚢で冷やして、何とか見られるような顔になったところで、いつものように学校へ。

遅刻ギリギリの時間にかけこむ。

「おはよう、シンジ」

「おはよう」

ちょっと吃驚したような顔をしていたけど、きちんとシンジが視線を交わしてくれたことには満足。

 

 

 

放課後、いつもの音楽室には行かなかった。

今日はチェロのソロ曲が聴ける筈だけど。

 

こんこんと、資料室の扉をノックする。

「開いているよ」

涼しげな声が誘う。

「何?」

薄暗い部屋でアタシを待っていたのは、渚カヲル。

「お願いがあって」

奥の見えない微笑みで指し示された折り畳み椅子に、アタシは腰かけた。

「出来ることと出来ないことが在るわ」

「出来ることだと思ってる」

アタシの言葉に、コイツは即答した。

「シンジ君、任せて良い?」

言っている意味が解らなかった。

少しして、沁み込むように理解できた。

「アンタに言われるまでもないわ」

アタシの返事に満足したのか、カヲルは含羞んだ。

「そうだね。でも、言わずにはいられなかったから」

 

「シンジ君が寂しそうな表情していたから、僕が何とか出来るかもって思ってた」

コイツの言葉は、過去形だった。

「最初は……繊細なところに魅かれたんだったかな

部活で一緒にいたら、その繊細さが全部君への想いで溢れてたような気がするよ

僕の出る幕じゃなかったんだね」

話しているあいだにも、廊下を隔てた音楽室からはチェロの音色が聴こえる。

「行っておいで

今日はもう、僕は帰るから」

 

 

 

 

いつかと同じ様に、シンジは独りでチェロを弾いている。

曲の終わりを待って、聴いていても良いか尋ねる。

シンジは黙ったまま、この前と同じ椅子を指差した。

 

「昔からずっと見てたんだからね、シンジのこと」

弾く曲を選んでいたシンジの手が止まった。

「近くで見ていて、少しずつシンジの好きなところ見つけて、そんな関係も悪くなかった」

想い出すように、懐かしむように。

それで満足できていた日々のことを。

「ずっとずっと、そんな曖昧な関係でいたのも……嫌われたくはなかったから

今、シンジがいなくなっちゃったら、耐えられないから」

見つめるシンジと視線が絡み合う。

「今すぐ恋人として扱ってなんて言わないから

『幼なじみが気づいたら恋人だった』なんて関係、悪くはないでしょ?」

無理に微笑もうとして、涙が零れた。

「アスカ?」

「だって……もう限界なんだもん

少しずつ好きになって、もう引き返せないところまで好きになっちゃって

『恋人』って関係にでもならないと満足できなくなっちゃったのに

でも嫌われたらアタシ、どうしたら良いのか解らない」

涙を拭こうとして、その手を止めた。

いつの間にかチェロを置いたシンジは、アタシのすぐ側まで歩み寄っている。

何か言う前に、手が優しく包み込まれた。

 

 

「今は好きでも、今後も好きかなんて解らない

嫌われた時、恋人同士だったら耐えられないよ

だったら最初から、アスカとは他人同士の方が良い」

ぽたりと、アタシとシンジの手の上に涙が零れる。

それはシンジのものか、アタシのものか、判らないけど。

切ないほど熱くて、想いの凝縮した涙。

 

はっと気がついた。

アタシとシンジが同じ想いを持っていたことに。

好き過ぎて耐えられなくなる前に、シンジにも好きになってもらうことを選んだアタシと、あくまで嫌われた時の痛みを堪えられるようにすることを選んだシンジ。

お互いのことが好きだったのに、臆病過ぎたね。

アタシも、シンジも。

 

「嫌いになんて、なるわけないじゃないの

バカシンジ」

腰の力が抜けてしまって、アタシは床に座り込む。

当然、手を繋いだシンジもそれに引き摺られた。

「小さな頃からずっとずっとシンジを見てた

毎日シンジを見て、毎日少しずつシンジの良いところを見つけて、毎日少しずつ『好き』になったんだから

今更シンジ以上に好きになれるオトコがいるわけないでしょ?」

「でも」

まだ何かを言おうとするシンジを、押し倒す。

窓から吹き込む風も、床の空気までは押し流せない。

湿った熱気が身体を包む。

熱病に冒されたように、ふわりとシンジを覗き込む。

馬乗りになったまま、動かないシンジの唇を奪う。

しっかりと顎を支えて、視線を絡めて。

 

「シンジにとって恋人じゃないかも知れないけど」

流石に押し倒したままってのも気が引けて、シンジを起こした。

床の冷たさが心地よい。

「アタシがアンタを好きでも良い?」

「じゃぁ、アスカに嫌われるまでは僕もアスカを好きでいて良い?」

真っ直ぐに見つめられると、目をそらせない。

柔らかく、ずっと欲しかった微笑みが目の前にある。

そしてシンジらしい控えめな提案にアタシは微笑んだ。

「バカ

アタシに嫌われるまで、じゃなくて、アタシに嫌われてももう一度好かれるまでくらい言いなさいよ」

 

 

 

 

恋人同士か、それとも単なる幼なじみか。

そんなことはもう、アタシたちには関係なくなった。

大切なことは、アタシはシンジを離さないし、シンジもアタシを放さないでくれるという、その事実だけ。

 

きっと、はた目には何でもない関係だし、お互いの距離が縮まったわけでもない。

新しくシンジに関して判ったことなんて殆どないし、アタシについて解ったことだってなかっただろう。

それでも。

朝起きるたびに、シンジに会えることを期待できる……それだけでも、アタシは断言できる。

シンジを好きになって良かったって。

 

 

 

 

おしまい