セピア色の記憶。
ほのかな懐かしさと柔らかさの同居したイメージ。
これは夢だ、と思った。
だって、セピア色の世界なのにこんなにも彩りに溢れているから。
高い空に白い雲。
窓から吹き込む風はレースのカーテンを揺らし、一瞬だけ彼を日向に放り込む。
初夏の昼下がり。
日陰に入れば、まだ十分に昼寝できる温度。
窓の外は明るくて、外にでないのがもったいないくらいなのに。
アタシたちは、部屋の中にいるのが好きだった。
のんびりと昼寝するのが好きなアイツと、そんなアイツの寝顔を見るのが好きなアタシ。
ママの出したオレンジジュースは氷が残ってるだけで、グラスの水滴がテーブルを濡らしてる。
柔らかい頬に、びっくりするくらい素直な髪。
こうして見ていると、コイツを構成するひとつひとつの要素は『オトコ』を感じさせないのに。
『シンジ』として認識した瞬間、オトコとして考えざるを得なくなる。
開きかけた掌は何かを求めるようにこちらに延ばされ、触ろうとしては自分の掌を拭う……そんな、傍から見たらおかしいようなことを何度も繰り返して。
濡れた唇がとても扇情的で、触ってみたいと言う誘惑にいつも駆られる。
指先で、頬で、そして唇で。
実行に移せたことはなかったけど、それだけに意識し始めると胸が締め付けられるように痛くなる。
床で寝てしまったシンジに寄り添うようにアタシも寝ころんで、触れるか触れないかギリギリのところで躊躇って。
今日もまた、アイツが起きるのを待つ。
起きて、その唇がアタシの名前を呼んでくれるのを待つ。
普段のアタシからは信じられないくらい消極的な態度だって思うけど、これが今は精いっぱい。
どうしても手放せない、大切な大切な関係だから。
tears
- the reason for my love -
チャイムが鳴って、一日が終わる。
ホームルームを聞き流しながら、窓の外に視線を移した。
抜けるよう青いって、きっとこういう色のこと。
浮かぶ雲の白さも青の引き立て役にしかなっていなくて、どこまでも遠い空に吸い込まれそうな気分になる。
「こらアスカ
空を眺めるのも良いけど、最後くらい聞きなさい」
ミサトに名指しされて、溜息交じりに視線を戻す。
意図的に気にしないようにしていたのに、視線を戻す途中で気にしてしまう姿。
同じ様に頬杖をついて窓の外を眺めるシンジの姿は、同じ歳には思えないくらい落ち着いた雰囲気が醸し出されていた。
手を伸ばせば届く位置にいたはずなのに、気づいたら雲みたいに見ていることしかできない処にいる。
「ねぇシンジ、一緒に帰らない?」
ホームルームが終わると真っ直ぐに、気にしていた席に向かう。
視線だけこちらに向けて、すぐに伏せられた。
ペンギンのキーホルダのついた、ペンケースが鞄にしまわれる。
「部活あるから」
シンジは音楽部、アタシは帰宅部。
言われなくても判ってる、この返事は。
でも、部活よりも優先してくれる存在になりたいって、いつかはそれくらい大切にしてもらいたいって……ちょっと高望み。
「待ってる」
「何時になるか、判らないから
女の子がそんな夜に出歩いちゃダメだよ」
すぐに返される言葉も、予想通り。
この言葉を聞いたら、アタシも諦めるしかない。
少なくともアタシのことを『女の子』って認識してくれている証拠だから。
シンジが教室をでてしまってから、誰かが肩を叩く。
振り返るとヒカリだった。
笑顔を作り損なったアタシの手を引いて歩き出す。
「毎日毎日、よくやるわね」
ホームルームが終わって、部活にいく人と帰る人で混雑する廊下。
爽やかさとはほど遠いけど、活気に溢れた空間は嫌いじゃない。
アタシと同じ帰宅部のヒカリは、サッカー部の応援にいく途中。
「ほっといてよ」
「いい加減にすれば良いのに」
「良いの
アタシにはアタシのやりかたがあるんだから」
「そうじゃない、碇君の方」
予想外の言葉に脚を止めた。
数歩先でヒカリも脚を止めて振り返る。
ぶつかりそうになった他の人が、迷惑そうに擦り抜けた。
「あれだけ毎日アスカから声かけてるんだから、何も思わないわけないでしょ?
そろそろはっきりしてくれても良いじゃない
アスカのこと好きなのか嫌いなのかって」
「良いの」
「だって」
「良いのっ」
語気が強くなってしまって、言った自分の方がびっくりした。
勿論、目の前のヒカリも驚いた表情しているけど。
そろそろ廊下の真ん中に立っているのも邪魔な気がしてきて、歩き出す。
半歩遅れてヒカリが付いてくる。
「好きって言ってくれれば良いけど、嫌いって言われたら立ち直れないから
だから、良いの
少なくとも口は聞いてくれる
満足してるわけじゃないけど、絶望しなくて済んでるもの」
「アスカって」
ヒカリは言葉を切った。
その次に何を言うか、選ぶように。
「碇君のことに関してだけ、物凄く臆病ね」
言ったヒカリ自身が納得して頷いている。
「そうね
アタシも、それは認めるわ」
サッカー部の応援に行くヒカリを見送って、アタシは今来た廊下を引き返す。
部活の時間は始まっていて、帰る人はさっさと帰ってるから、廊下は空いている。
喋り声もそんなに響いてなくて、音楽室からの旋律が反響して届いてくる。
ピアノ伴奏のチェロ曲。
階段を一歩一歩昇るたびに、音が近くなってくる。
2階から3階にあがるとき、もう周りには誰もいない。
この別棟の3階は音楽室と資料室。
音楽室はこの時間、音楽部しか使ってない。
だから、音楽部を除けばアタシが一番近くで聴いている。
北に面した窓を開けて、窓の桟に手をかけた。
聴こえてくるのはピアノ伴奏のチェロ曲。
音楽部と言っても部員は2人だけ。
シンジと、渚カヲル。
一度、演奏中の様子を窓ガラス越しに見た事があった。
見て、後悔した。
あんなに笑顔に溢れたシンジの顔、アタシは見た事がない。
少なくとも、この数年間。
それに気づいて以来、アタシは暫くここでシンジのチェロに耳を傾ける。
ヴァイオリンじゃなくてチェロってところがシンジらしい。
ソロを張れるほどの表現力を持ちながら、普段はヴァイオリンの華やかさの影に隠れることの多い楽器。
低音から高音まで、包まれるような優しさを持つ楽器。
アイツがチェロを始めるって聞いた時、マイナな楽器でシンジらしいって思った。
恥ずかしそうにアタシにチェロを聴かせてくれた時、その柔らかさがシンジらしいって感じて、物凄く納得できた。
幼なじみだったから、アタシが一番シンジのことを知ってるって思ってた。
気づいたらシンジと距離が出来ていて、その距離が埋められなくなっていて。
それだけだったら、まだガマンできる。
だけど、アタシの代わりに一番になったオトコがいるっていうのはガマンできない。
アタシが女だから、一番になれないの?
肩にかかる髪を、そっと手で梳いた。
女の子らしいからって、ずっと髪を伸ばしてきた。
これを切ったら、シンジに近づけるのかな。
思い切ってショートにしたら、雰囲気変わるかも。
何度もそんなことを考えて、何度も止めた。
アタシはアタシで勝負する。
消去法で一番近い存在になったって仕方ない。
アタシだから、と言ってもらえる存在にならないと。
次の曲が始まる。
この曲は知ってる。
サン・サーンスの白鳥。
伴奏に徹するピアノに、チェロのものとは思えない軽やかな旋律が重ねられる。
音楽の心得がないアタシでも、その表情の豊かさが判る。
だからこそ、悲しい。
チェロを通してしか、表情の豊かさに触れられないことが。
直接その優しさや温もりに触れさせてもらえないことが。
開け放たれた窓から音が漏れていく。
音に引き寄せられるように、風が吹き込んでくる。
押さえ切れなかった髪が舞う。
手櫛で髪を整えて、再び聞き耳を。
「髪、縛ってこれば良かった」
毎朝時間が惜しくて、下ろしたままにしているのだけれど。
シンジの隣に自分がいないことが、悔しい。
アタシも何か楽器をやっていたら、渚の代わりにシンジの隣にいられたかも知れないのに。
「悔しいな」
一言の愚痴はチェロとピアノの音に掻き消されて、アタシの耳にすら届かなかった。
昼休み。
授業が終わると同時に、アタシはシンジに駆け寄る。
「ねぇ、一緒にご飯食べない?」
お弁当の包みを見せる。
見上げられるのは好きじゃないから、しゃがんで机に顎がつく高さからシンジを見上げる。
いつもと違うアングル。
「良いよ
屋上で良い?」
予想外にOKがでて吃驚しているアタシを横目に見ながら、シンジは立ち上がる。
ワンテンポ遅れてシンジを追うアタシに、ヒカリがサムアップしている。
そんなヒカリに手だけ振って見せて、出入り口で待っているシンジに向かって走り出した。
アタシはきっと、この1週間で1番の笑顔を見せてる筈。
陽射しの強い街だから、屋上でご飯を食べる生徒は殆どいない。
階段を上がり切ったところの重い扉を開けると、陽射しが飛び込んでくる。
思わず目を閉じるアタシを他所に、シンジはそのまま真っ直ぐ歩いていく。
給水塔の影、陽はあたらないけど風の吹き込む場所。
お弁当を拡げて、食べ始める。
「ねぇ、アタシのこと避けてる?」
意を決して聞いてみた。
聞いた一瞬だけ、シンジの口の動きが止まった。
すぐに返事を期待していたわけじゃないから、アタシもサンドウィッチに手を伸ばす。
「避けてるわけじゃないよ
誰にでも変わらない」
ごちそうさま、と手を合わせたシンジはそう言った。
アタシの質問から5分くらい経ってからの返事。
ほっとして、がっかりした。
避けられてないっていうのは良いけど、他の人と同じっていうのは不満。
昔はもっと距離が近かったのに。
今はわずか30cmくらいしか離れていない。
こんなに近くにいられるのは、いつ以来だろう?
ぼーっと空を見上げるシンジ。
「ねぇ肩貸して」
そう言って、アタシはシンジの肩に肩を預ける。
頭が少しだけ触れる。
「ダメ?」
「良いよ
事後承諾だけど」
「ありがと」
今はこれだけで、満足。
ずっと触れることすら敵わなかったのに、実は隣にいることは簡単なんだって気づけたから。
それからのことは憶えてない。
気づいたらホームルームも終わって、ミサトが何かメモを取っているのが見える。
「アスカ、ちょっと良い?」
手招きするミサトに、アタシは鞄を持って付いていった。
社会科準備室は、本来の役割である資料の整理ではなくミサトの休憩室として使われていた。
「ま、座って」
冷蔵庫から林檎ジュースを取り出すと、2つの紙コップに注いだ。
「用件は?」
急かすように尋ねるアタシに、ミサトはカップを渡した。
受け取って、一口。
ブラインド越しの夕陽、壁を埋めるスチールラック、どうみても資料室なのに、その中央にあるテーブルと冷蔵庫がミスマッチで微笑ましい。
「担任がこんなこと言うのも何だと思うけど」
ミサトはそう前置きして、髪をかきあげた。
さらりと指先から髪が零れ落ちる様子は、女のアタシから見ても艶っぽい。
「慌てたら負けよ」
「何のこと?」
とぼけてみても、ミサトは判ってるに決まってる。
「シンジ君のこと
最近、ずっとシンジ君の方見てるでしょ?
慌てたって時間しか解決できないことはあるんだから」
そう言って自分もカップを手に取る。
「ずっと一緒だったから、これからも一緒にいられるって思ってた」
僅かに空いた窓から風が吹き込んで、ブラインドが硬い音をたてる。
ミサトの視線がすっと引き寄せられる。
「でも、気づいたらシンジの一番じゃなくなってた
アタシには時間がないの
慌てる必要はないかもしれないけど、急ぐ必要は在るの」
飲み切ったカップを手の中で潰す。
くしゃりと濡れた音が残る。
「わたしも通った道だから、アスカの気持ちも判らなくない
けどね」
ミサトは言って、ブラインドを上げた。
部屋の中に光が溢れる。
風が直接吹き込んで、テーブルの上の資料集のページが捲られる。
振り返るミサトの表情は、逆光になってアタシからでは見えない。
声は、いつものミサトだった。
「アスカが変わっていくシンジ君に戸惑っているみたいに、シンジ君もアスカが変わったら戸惑うはずなのよ
あなたたちの年頃って、わたしが思っているよりずっと大人で、ずっと子供
駆け引きなんてまだまだ憶える必要はない」
ミサトの髪がひるがえる。
「お節介かも知れないけど、ね
あなたを見ていると、昔のわたしを見ているみたいで……」
そう言ってミサトはアタシを手招きする。
「なに?」
「ここでも、シンジ君のチェロ、聴こえる」
聴こえてくるのは、確かにシンジのチェロ。
いつもはピアノの伴奏に載せられる旋律が、今日はソロ曲。
柔らかさと優しさは変わらない。
独奏であることが信じられないくらい、豊かな旋律と溢れる音圧。
「ホント、優しい子ね」
「うん」
「違うわよ
シンジ君じゃなくて、アスカのこと」
ぽんぽんと肩を叩かれて、慌ててミサトのほうを見る。
「今、すごく綺麗な顔してる
女のわたしでも見蕩れてしまうくらい」
くすっと微笑まれて、顔が熱くなる。
「シンジ君だって、その優しい気持ちをチェロの音色に載せているわ
アスカにはアスカの、気持ちの表現が在ると思うの
一歩一歩、その方法を捜していけたら良いわね
できたら、シンジ君と一緒に」
ミサトには敵わない。
窓際で手を振るミサトを見て、改めて思った。
廊下をあるいているうちは、意識してもその音色は耳に届かない。
放課後の部活動、友達とのおしゃべり、そんなことが渾然して妨げているから。
別棟に入ると、空気が変わる。
騒々しさが遮られて、廊下を響く音色の輪郭が現れる。
階段を一歩一歩、昇るたびに彩色されて、深みが感じられる。
音楽室の前。
いつもだったらここまで。
ここまで来ると、聴こえる旋律もずいぶんと柔らかみが増す。
それでも1枚の紗がかけられたような、もどかしさを感じずにはいられない。
むしろ、ここまで近くにいて、目の前で聴くことがイメージできるから、尚更違和感を感じているのかも。
緩急のついたヴィヴラートで曲が終わる。
そのタイミングでドアを開ける。
そっと弦から指を放したシンジが、こちらを見つめる。
「聴いてても良い?」
あっさりと頷いたシンジにほっとして、教壇の前の机に腰かけようとする。
「アスカ、こっち」
弓を左手に持ち替えたシンジが手招きして、傍らのピアノの椅子を指差す。
「そっち?」
「こっちのほうが、綺麗だと思う」
微笑みが素直過ぎて直視できない。
ガラス越しに他人に向けられた微笑みしか見ていなかったから、アタシに向けられた笑顔が眩し過ぎて。
こんなふうにシンジにチェロを聴かせてもらったのって、いつ以来?
吹き込む風に身体を委ねて、優しい音色に心を委ねて、そんなことを考えた。
小さく含羞んで、お辞儀をする姿が微笑ましい。
初めてコンサートにでるんだって喜んで、弾く曲をアタシに聴かせてくれた。
素人のアタシが聴いても拙い演奏だったけど、同時に優しさに溢れた演奏だった。
夏の日の夕方、気怠さと眩しさが陽の傾きと共に拡散していく時間帯。
開け放たれた窓から吹き込む風は、流石に昼間の熱気を帯びていたけれど。
この風も、もう数時関すれば心地よくなる。
高層マンションの部屋なんて、そんなもの。
いつもならシンジの家に遊びに行くところだけど、今日はアタシの家に来てもらった。
どう?って感じに上目遣いに見上げる表情は、独り占めしたくなる。
「まぁまぁね」って言ったら、予想外に「うん」って頷いて、アタシの方が驚いた。
弦を緩めてチェロをケースにしまいながら、シンジは続ける。
「アスカに聴いてもらえるってだけで、どきどきした
まだまだ練習が足りないよね」
ぱたんとケースを閉じて含羞む。
独占欲っていう言葉の意味を、このとき初めて実感した。
その無邪気な微笑みを、アタシだけのものにしたかった。
柔らかい頬も、瑞々しい唇も、誰にも触れさせたくなかった。
だけど、嫌われると言うことに臆病だったアタシは、何もしなかった。
夏の日の想い出が、シンクロする。
どう?と表情で聞くシンジに、アタシは立ち上がる。
手招きするアタシに、シンジはチェロをそっと床に置いた。
不思議そうな顔をしてゆっくり歩み寄るシンジがじれったくて、アタシから歩み寄る。
両手でそっとシンジの頬を支える。
「?」
まだ判らないような表情をしているシンジに、どこかほっとした。
こんなシチュエーション、初めてってことよね。
吹き込む風が良い感じに髪をかき乱す。
乱れた髪に注意が逸れたシンジの唇に、アタシの唇を、そっと重ねた。
息を呑もうとして、結果的にアタシの唇が吸われる。
くちゅっと、艶っぽい音がして、慌てて息を止めている様子がおかしい。
頬に添えていた手を首筋に絡める。
びっくりするくらい、脈拍が早い。
もっとくっつきたくて、シンジの背中に手を回す。
びくっと身体が撥ねて一瞬唇が離れて、それを追い掛けるようについつばむ。
湿った音が淫靡なメロディを奏でる。
唇の感覚がなくなった頃。
頬が濡れているのを感じた。
泣いているのはシンジ。
「ちょっと……」
眼を見開くアタシの腕を振りほどいて、濡れた頬を拭いもせずに微笑んだ。
悲しいとしか形容しようのない微笑み。
そしてそのまま、出ていってしまった。
後には、チェロとアタシだけが残された。