前回のあらすじ

 フォースチルドレンとしてマルドゥック機関が選抜したのは、洞木ヒカリだった。しかし、大人しい性格の彼女はチルドレン就役を拒む。リツコは そ んな彼女への説得役を勤めて欲しいとシンジに迫る。大切な友人であったヒカリを巻き込むことに懊悩するシンジ。しかし、約束の日にレイに再び会うことを渇 望するシンジは、煩悶しながらもその役目を引き受ける。容態が思わしくないトウジのネルフ付属病院への転院を条件として、ヒカリにフォースチルドレン就役 を迫るシンジ。
一方そのころ、浅間山の火口内に蛹状の使徒が発見され、ネルフはその捕獲作業に入る。溶岩の海に潜る弐号機だが、会敵予想地点に使徒の姿はなく、功を焦る アスカは限界を無視して火口の奥深くへの沈降を続ける。ついに弐号機のセンサーが使徒を発見するが、使徒はすでに羽化を終えた後だった。幾重にも悪条件が 重なる中、使徒の前に手も足も出ない弐号機。ミサトは弐号機の地上への離脱を急がせる。が、使徒の攻撃で弐号機のアンビリカルケーブルが断線してしまう。 避けられない死を覚悟したアスカは、弐号機とのシンクロを解除し、“その時”が来るのを待つのだった。が、いくら待っても死は訪れようとはせず、そのこと を アスカが訝しく思ったとき、弐号機のプラグが排除される。
「アスカっ、無事?!」
開かれたプラグのハッチの向こうからミサトの心配顔が覗く。アスカがシンクロを切ったあと、火口内に飛び込んだ初号機によって使徒は殲滅されていた。
そして、この戦闘の翌日、校舎の屋上にはチルドレン就役を承諾する旨をシンジに告げるヒカリの姿があった。



EVANGELION  WAIL

第11話



 
<MISATO>

スクリーンの中で、エヴァ四号機の白銀の機体を第四使徒の光の鞭が切り裂いていた。


「エヴァ四号機、撃破されました」

青葉君の報告とタイミングを一にして、スクリーン上に赤く『四号機戦闘不能:テスト中止』という文字が点滅する。

「今日はこれで三回目ね…」

溜め息を一つ吐いて、私はコンソールの上のマイクを手に取った。

「ヒカリちゃん、さっきと同じところでミスしてるわよ。もう一度ステージ1からやり直し」

マイクをコンソールに戻すと、日向君がちらりとこちらに視線を向けた。

「葛城さん、もう二時間ぶっ続けですよ。少し休ませた方が良いんじゃありませんか?」

「時間がないわ。四号機の到着は明後日よ。とにかく少しでも早くエヴァの操縦に慣れてもらわないと…彼女の命に関わることでもあるし…」

「そう…ですね…」

新たに本部に配属される四号機の専属パイロットとして、洞木ヒカリという女の子がフォースチルドレンに選抜されて、今日で一週間になる。四号機が到着次 第、すぐに実戦に投入できるよう、私はこの一週間というもの、彼女を訓練漬けにしていた。

「では、インダクションモードで訓練再開。ヒカリちゃん、ターゲットと対峙したら目標をセンターに入れてスイッチ。いいわね」

私の指示に「はい」という細い声がスピーカーから届く。マヤちゃんに視線を向けると、彼女は軽く頷いてコンソールに指を走らせた。

「インダクションモード、ステージ1。訓練開始します」

マヤちゃんの言葉を受けて、私は視線をスクリーンに向けた。

そこではライフルを手にした四号機が、第四使徒と対峙している。

無論、実際の映像ではない。MAGIによって処理された仮想映像だ。

スクリーンの中で、四号機が第四使徒に向けてライフルを持ち上げる。銃口から閃光があがり、劣化ウラン弾が使徒の身体を抉っていく。私はその光景を見つめ ながら、顎に手をやった。考え事をするときの私の癖だ。

(洞木ヒカリ14歳。マルドゥックが選んだ四人目の被験者か…)

新たに指揮下に入ったこの女の子のパーソナルデータ―は、既に私の頭の中に叩き込まれていた。

父親と姉、妹、それに彼女自身の四人家族で、母親とは死別。学校の成績は優秀で、どの教科も満遍なく高得点を挙げている。

こつこつと物事に取り組む努力家タイプ。世話好きで人望も厚い。

その所為か、クラスの委員長も務めている。当然ながら非行歴はなし。趣味は料理、手芸、読書。優等生と言う言葉の総天然色見本のような子だった。

レイもアスカもシンジ君も、今までのチルドレンはみなどこか変わり者ばかりだったから、四人目にしてようやくまともなチルドレンが選別されたと言ってよ い。

「あ、そういえば」

いままで黙々とスクリーンを見つめていた青葉君が口を開いた。

「フォースチルドレンて、第二次直上会戦のときに、初号機の足元をうろちょろしてた子だそうですね」

「ええ。あのときの女の子よ」

「資料を見たとき、どこかで見たことがある顔だと思ってたんですよ。昨日マヤちゃんに教えられて初めて気がつきました」

「私も、最初に資料を見たときには気付かなかったわ」

そうと気付いたのは、リツコから当人を紹介されたときだった。

「あと、これもマヤちゃんから聞いたんですが、彼女、怪我をした恋人をネルフ付属病院に入院させることをエヴァに乗るための条件にしたそうですね」

「ええ…らしいわ…」

「けなげですねえ、彼女…」

感に堪えないといった声をあげる青葉君に「そうね…」と応じながらも、私はどこか釈然としないものを感じていた。

かつて私は第四使徒との戦いのあと、本部に連行された彼女と話しをしたことがあった。

そのときの印象では、彼女は聡明そうではあったが、けっして小知恵が回ると言ったタイプには見えなかった。『エヴァに乗る代わりに、大怪我している彼をネ ルフ付属病院に』などと取引を持ちかけてくるのは、本来の彼女の思考回路にない考えのように思われる。

とすると――

(むしろ、ネルフ側がその件を材料にして、彼女にフォースチルドレンとしてエヴァに乗るように強いたんじゃ…)

不快な想像だが、そう考えれば筋が通る。ネルフという組織がそうした強引な手段を取ることをはばからない組織であることは事実だった。

(でも…もしそうだとしたら…)

その場合、ヒカリちゃんの想いがとても真摯なものであることを知っている人間でなければ、この件を取引の材料にしようとは思いつかないはずだ。

そして、彼女の想いの深さを知っているだろう人間がネルフ関係者の中に2名いた。

クラスメートとして彼女と接する機会の多いアスカとシンジ君だ。だが、アスカはここしばらく居候先の私のマンションに閉じこもったままで、外出はしていな い。学校にも行っていないのでヒカリちゃんと接する時間は持てていないはずだ。となると――

(まさか、シンジ君が……?)

あの大人しげな少年がそんな脅迫めいたことをするとは信じがたかったが、その疑念は消えない染みのように、私の胸の中に影を落とした。



<HIKARI>


「では、インダクションモードで訓練再開。ヒカリちゃん、ターゲットと対峙したら目標をセンターに入れてスイッチ。いいわね」

シミュレーションプラグのスピーカーから響く葛城さんの凛とした声に「はい」と小さな声で返事をして、私はもう何度目になるか分からない訓練に再び取り組 んだ。

エヴァンゲリオンのパイロットになることを了承してからのこの一週間、私はネルフ本部に篭りきりになって訓練に明け暮れていた。おかげで沖縄への修学旅行 にも行けていない。

「目標をセンターに入れてスイッチ……目標をセンターに入れてスイッチ…」

私の視界には、烏賊とも、鎌首を持ち上げた蛇とも見える奇怪な怪物が映っていた。コンピュータによってリアルに再現されたダミーのターゲットだ。懐かしい と言えば語弊があるが、確かこの怪物が来襲したとき、私はシェルターを抜け出して、戦闘に巻き込まれることになった。

もう何ヶ月も前のことなのに、まるでつい先日のことのように思われる。あのころは、私がこんなロボットに乗り込むことになろうとは夢にも思っていなかっ た。

「目標をセンターに入れてスイッチ…」

正面に浮かぶ白いサークルの中に目標の姿を納めると、私は機械的な動作でインダクションレバーの引鉄を引いた。怪物に向かって、ライフルの火線が延びる。

「いい調子よ」

葛城さんが誉めてくれたが、それは私の心に喜びをもたらしたりしなかった。それどころか、自分はここで何をやっているのだろうという違和感が拭いきれな い。

「目標を……」

それでも私は

「センターに入れて……」

このロボットに乗って戦場に立たなければならない

「スイッチ……」

鈴原のために。




<RYOUJI>


「よっ……」

鍬を振り下ろすと、そのまま手にぐっと力をこめて刃先で土を掻き出した。

むっと濃い土の匂いが漂ってくる。

俺は腰をかがめると、種苗店で買ってきたスイカの苗を、たった今耕したばかりの畝に植えていった。

スイカの苗は全部で20。このうちの半分でもきちんと実をつけることができたら上出来だろう。

全ての苗を植え終わると、俺はその場に腰を下ろして煙草に火をつけた。完成したての畑に視線を向ける。

ネルフ本部の第二通用門から歩いて10分ほどのこの場所に畑を作ろうと思い立ったのは、いまから10日ほど前のことだった。たまたまこのあたりを散策し ていたときに、ふとそんな気になったのだ。

要は単なる気まぐれなのだが、そうしたイレギュラーな思いつきに身を任せることが俺は嫌いではなかった。

だから植えるものにスイカを選んだことにも深い意味はなかった。ただ、どうせなにか植えるなら食べられるものをと思ったのは、セカンドインパクト世代らし い貧乏性の表れかもしれない。

「ジオフロントにはスイカがよく似合う…」

タバコの煙とともに、太宰治の『富岳百景』の中の有名な言葉を模してそんな戯言を呟いた。意外に名文句かもしれない。

「さてと……」

短くなったタバコを投げ捨てて、俺は視線をネルフ本部の方に向けた。あそこでは今ごろ。先ごろ選抜されたばかりのフォースチルドレンの訓練が行われている は ずだった。

(フォースチルドレン、か……)

四号機の配属決定とともに、都合よく選抜された四人目の適格者。そのタイミングの良さに俺は不自然なものを感じていた。そういえばサードチルドレンも第三 使徒の侵攻直前になって急遽選抜されている。

(エヴァンゲリオン操縦適格者選抜機関、通称マルドゥック機関か…調べてみる価値はありそうだな)

国連直属の機関でありながら、あまりにブラックボックスに包まれた箇所の多いネルフという組織。その背後にわだかまる闇の部分に何があるのかを調べるの が、俺の本当の仕事だった。

すでに主要な幹部の過去や、ネルフという組織の金の流れなどを調べてはいるが、はかばかしい成果は得られていない。

ネルフ本体を調べるよりも、マルドゥックなどの関連機関を調べたほうが、かえって手がかりが得やすいかもしれない。もっとも、真実に近づけば近づくほどに 消される可能性も高くなるが。

「……………」

ネルフ本部のほうに向けていた視線を足元のスイカの苗に移した。

今日植えたスイカが実をつけるとして、俺がそれを口にすることはないかもしれなかった。



<SHINJI>


僕の目の前で、第九使徒の身体から噴き出たオレンジ色の溶解液が、四号機の機体を 容赦なく溶かしていった。

『痛い……痛い……』

そう言って泣き叫ぶ洞木さんの声が、初号機のプラグのスピーカーから響 く。その悲痛さに居たたまれなくなった僕は両手で耳を塞ぎ、堅く目を瞑った。 それでも苦痛に煩悶する声は些かも音量を下げることなく、脳髄に直接響いて僕を苛む。

と――

いつの間にか僕を追い詰めていた悲鳴は消えていた。恐る恐る目を開けた僕は自分が どこかの病室の中に立っていることに気がついた。

病室の中にはベッドが置かれ、そこに黒い髪の女の子が一人、横になっていた。顔の 左半分が包帯に覆われている。

洞木さんだった。

「……………」

意識のない彼女を見つめていた僕は、ふと奇妙なことに気がついた。彼女の体にかけ られた布団が、彼女の左足がある部分だけべったりと平板になっていた。まる でその下には何も存在しないかのように。

「あ………」

それが意味することを一瞬にして悟った僕は、思わず一歩後ずさった。そのまま病室 から逃げ出そうとした矢先、不意に背後から僕を呼ぶ声が聞こえた。

「シンジぃ…」

恐る恐る振り返ると、そこにトウジが立っていた。

恨めしそうとも悲しそうともつかない目でじっと僕のほうを見ている。

「トウジ……」

「なあ、シンジ…“前”の時はわしの左足奪っといて、今度は委員長の左足奪うん か?なあ、わしら、おまえにそこまでされるようなこと、何かした か?そら、確かにわしはおまえのこと二発もどついたりしたけど、だからッちゅうて、この仕打ちはないんと違うか?なあ、なんでこないな酷い事するんや?」

「…あ……あ…………」

でくの坊のようにただ立ちすくむ僕は、まともな言葉は紡げずにいた。そんな僕にま たも背後から声がかけられた。

「碇君……」

振り向けば、いつの間にか洞木さんがベッドに上体を起して僕のほうをじっと見つめ ていた。その目には奇妙な静けさがたたえられ、何の感情も伺うことができ ない。

「碇君…私、片足なくしちゃった。碇君が私を脅迫してエヴァンゲリオンなんかに乗 せたりしたから…」

「…………」

凍りつく僕に、洞木さんが凄艶な笑みを向けた。

「それだけじゃないのよ。ねえ、碇君、これを見て…」

そう言うと洞木さんは顔の左半分を覆っている包帯をほどいて見せた。

「アタシの顔…こんなになっちゃった……」

「ひっ――――」

使徒の溶解液を浴びたのか、洞木さんの顔の左半分は焼け爛れ、赤黒くそそけ立った 肉の表面には体液がじくじくと滲んでいた。

「ねえ、碇君、私醜い?…こんな顔の女の子、鈴原も嫌だって言うよね?ねえ、碇 君、どうして私を無理にエヴァンゲリオンなんかに乗せたの?エヴァンゲリオ ンに乗りさえしなければ、こんな怪我を負うこともなかったのに…」

「……………」

「なあ、シンジ、どうしてこないな仕打ちをするねん?」

「ねえ、碇君どうして?」

「教えてくれや、シンジ」

「教えて、碇君」

「何でや?」

「どうして?」

「なあ?」

「ねえ?」



「うわぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ」

悲鳴とともに上体を起した僕は、額に浮かぶ冷たい汗を拭った。痛いほどに動悸が激しい。

「はあッ…はぁ……」

荒い息を整えながら、僕は枕もとの時計に視線を向けた。暗闇の中、夜光塗料を塗った時計の針が二時四十分を指していた。

(これで……七日目か……)

洞木さんがフォースチルドレンとなることを承知した日を境に、僕はまた連日の悪夢に苦しめられていた。

以前は、綾波が一緒に寝てくれることで悪夢から逃れることができたが、今、僕の横に綾波の姿はない。いまはもう、眠ることそれ自体が怖かった。

「もう眠りはない…碇シンジは眠りを…殺した…」

シェイクスピアのマクベスの中の有名な言葉をもじって僕は呟いた。無心に眠れるというのがいかに幸福なことか、これほど思い知らされたことはなかっ た。

(明日…薬を貰おう…リツコさんに。夢も見ないほどに深く眠れる薬を――)

そう決意した僕は、その後まんじりともせず、長い夜を過ごした。




<RITSUKO>


「じゃあシンジ君、これが薬ね」

そう言って私は、内服薬と印刷された小さな白い紙袋をシンジ君に手渡した。

「シンジ君も分かっているとは思うけど、本当はこんな薬なんかに頼らないにこした事はないんだから、できるだけ使用は控えるようにしておくこと。それと用 法は必ず守ってね。弱い薬じゃないんだから」

「はい…」

覇気のない声で返事をして、シンジ君はのろのろと私の執務室を後にした。

それを見送った後、しばし考え込んでいた私は、おもむろに受話器を取り上げると内線をコールした。相手はすぐに出た。

「赤木です」

『なんだ』

愛想のかけらもない声が受話器から届く。

「サードチルドレンですが」

『……………』

「先ほど、夜、眠れないと訴えてきました」

『…それで?』

「問診した結果、かなり重度の睡眠障害が認められたので、睡眠薬を処方しました」

『そうか……』

「一応、お知らせしておいたほうが良いかと思いまして」

私の言葉にはごく微量の皮肉の成分もこめられていたが、電話の向こうの人物はそれを無視した。

『サードチルドレンは、目下のところ使徒迎撃の要だ。体調の維持には留意させておけ』

「はい」

『話はそれだけか?』

「はい」

私が応えるのと同時に電話が乱暴に切られた。だが、私はそこにあの人の心の揺れを見たような気がした。

(心配してるくせに、シンジ君を。彼が大切な女性の忘れ形見だから…)

碇ユイという女性があの人の目の前からいなくなって、既に10年以上が経っている。けれどそれほどの時間ですら、あの人のユイさんに対する想いを色褪せた ものにすることはできなかった。

そう――

私は知っていた。レイが零号機の中に消えて以降、あの人がしばしば、ターミナルドグマの奥深くの『ある部屋』を訪れていることを。

そこではあの人にとって一番大切な女性と生き写しの姿をしたモノが、巨大な水槽の中をたゆたっている。

あの人がその部屋の中で、私には決して向けてはくれないだろう種類の眼差しをそのモノたちに向けていると考えただけで、妬心で身が灼けそうになる。

一度などは、あの部屋に下りて、そこにたゆたっているモノたちの身体を調べたことがあった。そこに、情交の痕がないかと。六体までを調べたところで、わが 身の あまりの情けなさに涙が出た。

(でも、あの時、もし調べた中に情交の痕があるモノがいたら、私はあそこにあったモノたちを全て破壊していたでしょうね……)

それは予想ではなく、確信だった。




<MISATO>


エヴァ四号機の搬入を明日に控えて、私は朝からその準備に忙殺されていた。

夕方を過ぎてやっと十五分ほど時間が取ることができたので、私は食堂に向かうことにした。昼食を取る余裕がなかったため、空腹で目が回りそうだった。

エレベーターホールに向かっていると、10メートルほど先に、とぼとぼと廊下を歩くシンジ君の背中を見つけた。白い小さな紙袋を手にしている。

「あ、シンジ君」

小走りに走っていって追いつくと、私は彼を呼び止めた。

こちらを振り向くシンジ君の動きはどこかしんどそうで、私はそのことが僅かに気にかかった。

「どうしたの?なんだか疲れているようだけど?」

「いえ…」

返事をしながらも彼は私とは視線を合わせようとはしなかった。そういえばいつのころからか、この少年は人の目を見て話をしなくなっていた。

「ねえシンジ君、ちょっちお願いがあるんだけどいいかな?」

「なんですか?」

「うん…明日の四号機の機体搬入の件で忙しくて、あたし、今日は帰れそうにないの。で、アスカのことが心配だから、悪いけどシンジ君、帰りに私のマンショ ンに寄ってあの娘の様子を見て欲しいのよ」

「……………」

「このところシンジ君はアスカとテストのスケジュールが重なっていないから知らないと思うけど、こないだの浅間山での戦闘以降、またあの娘のシンクロ率が 下がってね…今日も午前中にあの娘のシンクロテストが行われたんだけど、あの娘、とうとう起動指数に達しなかったのよ。当人は平気そうに振舞っていたけ ど、実際は 酷く落ち込んでると思う。だから、今はあんまりあの娘を一人にはしておきたくないの」

「…加持さんや洞木さんの方が適任じゃないですか?」

「加持の馬鹿は捉まらないし、ヒカリちゃんはさっき訓練を終えて本部を後にしているから…シンジ君には遠回りさせて申し訳ないんだけど、頼まれてくれな い?」

「……………分かりました」

「悪いわね。今度この埋め合わせに、何か奢るから楽しみにしてて」

そういって彼に微笑みかけた私は、彼が手にしている紙袋に『内服薬』と印刷されていることに気がついた。

「あれ?シンジ君、その薬どうしたの?」

「あ…リツコさんに貰った栄養剤です。最近少し疲れてるから」

「そう……」

直感的に嘘だと分かったが、私は追求しなかった。




<HIKARI>


無機質なまでに清潔な廊下を、コツコツと小さな靴音を響かせて私は歩いていた。

僅かに漂う薬品の匂いが、いま自分は病院の中にいるのだと気付かせてくれる。

まっすぐに伸びた長い廊下を進み、一度突き当たりを右に折れた。右手側に並ぶドアを一つ、二つと数えながら、私は五番目のドアの前で足を止めた。

ドアの横に『鈴原トウジ』と几帳面な字で書かれている表札が下がっている。

「………」

二、三度笑みを作る練習をして、私はそのドアをコンコンと二回ノックした。

返事は返ってこない。曇りかけた表情をむりやり明るいものに切り替えて私はドアを開けた。

ベッドが四床は置ける広い個室で、鈴原は昏々と眠りつづけていた。

「ねえ鈴原…どう?調子は」

ベッドの横に用意された椅子に腰掛け、私は鈴原に声をかけた。

私がエヴァンゲリオンのパイロットとなることを承諾したのと同時に、鈴原は前の病院からこのネルフ付属病院へと転送されていた。

ネルフの本部施設からは目と鼻の先にあるため、訓練の帰りに鈴原を見舞うのがこのところの私の日課になっていた。

「ねえ、鈴原、聞いてくれる?」

そう言いながら私は彼の手をそっと掴んだ。こうして話し掛けたり、身体に触れたりすることで脳が活性化するきっかけになるのだと、鈴原が前に入院していた 病院の看護婦さんから聞いていた。

例えどんなに設備の整った病院で治療するにしても、本当に患者を癒すのは回復を祈る周囲の人々の想いなのだと、その看護婦さんは私に語った。私はその言葉 を信じている。

「ねえ、今日は私、怪物を三体もやっつけちゃった。っていっても訓練でだけどね」

一方で、自分が5回も撃破されたことは口にしなかった。

「訓練が済んだら、葛城さんからも筋が良いって誉められちゃった。ほら、葛城さんって、前に話ししたでしょ?私やアスカの直接の上司に当たる人。すごい美 人なんだけど、とても気さくで良い人よ。しかもスタイルが抜群。胸なんか私の倍以上はあるんだから…。たまにね、私、自分の胸と葛城さんの胸とをそっと見 比べて溜め息をつくことがあるの」

たわいもない話。私の言葉が鈴原に届いているのかさえ定かではない。けれど私はこうして鈴原に毎日話しかける。

「………でね、その話をオペレーターの伊吹さんにしたら、伊吹さんも時々自分の胸と葛城さんの胸を見比べて落ち込むときがあるんだって、笑ってたわ。『ヒ カリちゃんはまだまだこれから成長期だけど、私なんかもうこれ以上は大きくはならないだろうしなぁ』っていって、恨めしそうな眼で自分の胸を見つめるの。 確かに葛城さんに比べたら小振りなんだけど、でも伊吹さんだっていいスタイルしているのよ。ネルフってなんだか美人が多いみたい」

鈴原が元気だったら、一度ぜひ実物に紹介してくれと煩いんだろうな、と頭の片隅で考えた。

そうなったらきっと私は、鼻の下を伸ばしている鈴原に腹を立てて、『スケベ』だの『エッチ』だのと言い立てているのに違いなかった。

そんなたわいもない喧嘩ができた日を、私はある種の切なさとともに思い返した。

「あ、そうそう。昨日、相田君から電話がかかってきてね。修学旅行のお土産持って、鈴原の見舞いに行きたいんだけどって言ってたわよ」

相田君は私には沖縄の海の写真をパネルにしたものをお土産としてプレゼントしてくれていた。

「………沖縄……行きたかったね……」

ぽつんと私は呟いた。


――夜の砂浜を歩く私と鈴原。沖縄の海は潮騒までも美しく、その音と潮風の甘さ に、私はいつものように意地を張ることなく素直に鈴原に自分の気持ちを打ち 明け る…。

私の言葉に鈴原は少し戸惑うけれど、でもそれは一瞬のことで、私にそっと微笑んで くれる…


そんな他愛もない夢想を何度巡らせたことだろう。


「鈴原がさ、元気になったら、一緒に沖縄行こうね。…私、パイロットとしてお給料ももらえるから、旅費は私が奢っちゃう。その代わり…荷物持ち…して… ね」

危うく涙が溢れそうになった。

「明日……明日、アメリカから私の乗るエヴァンゲリオンが届くの。起動がうまくいったら、私もパイロットとしてあの怪物と戦うようになるの…でも… でもね、鈴原…私…怖いの…とても怖いの……」

体が小刻みに震える。

「だから、鈴原…私に勇気を頂戴……」

私の唇が鈴原の唇にそっと重ねられた。

けれど――

眠り姫のおとぎ話と違って、鈴原がその口付けで目を覚ますことは無かった。



<SHINJI>


久しぶりに訪れたコンフォート17マンションは、どこか余所々々しく僕の目には映った。

それはつまり、僕がここをもう自分の家として考えてはいないことの証に他ならず、僕はそのことにかすかな寂寥感を感じた。

「……………」

『11―A―2』とプレートが貼られたドアを束の間懐かしむような視線で見やって、僕はドアの横のインターホンのボタンを押した。

返事がない。

(留守……?)

鍵がかかっているか確かめようと、僕はドアノブへ手を伸ばした。案に相違して、ドアは拍子抜けするほどあっさりと開いた。

「あのー、碇だけど…惣流さん?」

開けたドアから室内に向けて声をかけるが、その声にも応えはなかった。足元に目をやると、靴脱ぎにアスカの靴が乱雑に脱ぎ捨てられたままになっている。ど うやら彼女は部屋の中には居るみたいだ。にも関わらず返事がないということに、僕は不吉なものを感じ取った。

「惣流さん?」

もう一度大きな声でアスカの名を呼ぶ。やはり返事は返ってこなかったので、僕は非礼を承知で室内に足を踏み入れた。

アスカの部屋にまっすぐ向かおうとして、僕は足を止めた。“前”の時と同じく、アスカが洋間を自室にしているとは限らないと気がついたからだ。

そもそもアスカは正式にミサトさんのマンションに住んでいるのではなく、居候をしている状態なのだから、自室は持っていないかもしれない。

と――

戸惑う僕の耳に、ことんと何かを置く音が小さな音が届いた。ダイニングの方からだった。

「惣流さん――?」

リビングを経由してダイニングに向かった僕は、そこにあった光景を目にして言葉をなくした。

ダイニングのテーブルには空になったビールの間が散乱し、その間にうずもれるようにしてアスカがテーブルに突っ伏していた。彼女の右手にはビールの缶が握 られていて、緩慢な動作で時折腕を動かしてはビールを喉に流し込んでいる。無理な体勢で缶を傾けているため、口の端から零 れたビールが胸元に伝っていた。

テーブルにはビールだけでなく、中身が半分ほどになったジンの壜もあった。アルコールの匂いが部屋の入り口にいる僕のほう にまで強く漂ってきた。

「あらあら…これはこれは…成績優秀、勇猛果敢。ネルフが誇る無敵のサードチルドレン様ではありませんか。夜分、突然のご来訪は、一体いかなるご用でしょ うか?」

テーブルに突っ伏した格好のままで、アスカは呆けたような笑みを僕に向けた。なんだか酷く無残な光景に見えた。

「お酒…飲んでたの?」

「ううん…飲んでたんじゃないの。飲んでるの」

そう言うとアスカは、僕に見せつけるように卓上のジンの壜を掴むと中身をぐいっと呷った。

「で、サードチルドレン様はどういうご用向きで、かような陋屋までお越しいただきましたのでしょうか?」

「……ミサトさんが」

「……………」

「ミサトさんが惣流さんのこと心配して……今日は帰れないから、僕に様子を見てきてくれないかって…」

僕の言葉に、アスカは究極に人を馬鹿にしたような表情を浮かべた。

「はっ!ミサトったら馬鹿じゃないの。無敵のサードチルドレン様にそんなつまらない雑務押しつけるなんて…」

「ミサトさんは、惣流さんの事心配してるんだよ」

控えめな僕の反論にアスカは顔を歪めた。

「心配してる?私がこのまま、もうエヴァを動かすことのできないポンコツになるんじゃないかって?でも私がそうなっても良いように、アメリカから四号機を 取り寄せたんでしょ、ミサトは」

「………………」

「明日、四号機の起動実験が成功したら、私きっと用済みね…」

自らを嘲るようなその口調は、彼女らしくないこと甚だしかった。

「そんなことはないよ…」

無力と分かっている気休めの言葉が僕の口からこぼれる。実際、ミサトさんは兎も角、あの人やリツコさんはアスカがエヴァを動かせないとなったら、彼女を さっさとお払い箱にするだろう。その点でアスカの言葉に間違いはなかった。

と――

このとき僕は奇妙な思いつきにとらわれていた。

もし今アスカがエヴァに乗れなくなったら、その後任としてフィフスチルドレンが選ばれるのだろうか?

もし選ばれるとして、それはやはり――

“彼”なのだろうか?




<ASUKA>


「明日、四号機の起動実験が成功したら、私きっと用済みね…」

自らを嘲るような口調の中に、私は恐怖心を押し隠した。

ここ何回かのシンクロテストで、私のシンクロ率は起動指数ぎりぎりのあたりをうろついていた。

そし て今日、私のシンクロ率はついに起動指数をごくわずかながらついに下回った。明日、四号機が起動実験が成功したなら、私は予備役ということになりかねな い。

「そんなことはないよ…」

シンジが気休めの見本のような言葉をかける。こんなときに、かくも凡庸な言葉しか口にすることができない奴に、私は実戦で二回も遅れを取っていた。

(ちっ………)

ささくれ立った気分を紛らわせるために、私はもう何本目になるか分からない缶ビールのプルタブを開けた。ありがたいことに、冷蔵庫には良く冷えたビールが まだ二ダースほども私を待っている。

「…………………」

のろのろとビールを口に運ぼうとした私の手をシンジが左手で掴んだ。右手に持っていた白い紙袋をテーブルの上に置くと、空いたその手で私の手からビールの 缶を奪った。

「返してよ……」

「……もうやめたほうがいい。これ以上飲んだら急性アルコール中毒を起すよ。それに明日は、四号機の起動実験があるから、本部に詰めておくように言われて るんだし…」

「はん…無敵のシンジ様はともかく、私なんかが詰めていたって、何の役にも立たないわよ。なんたってエヴァを動かせないんだから…。居たって仕方ないじゃ ない」

「………………」

「もうね…私の居場所はここにはないの………ここだけじゃない。どこにも……」

押し殺したようにそう口にする私を、シンジが困ったような顔で見ていた。何か言葉をかけたいのだが、気休めでない言葉を見つけることができずに、何も言え ないでいると言ったところか……



気休めでない言葉をかけることができないのは、こいつが私のことを本気で案じている訳ではないから。

傷ついている女の子を案じる“素振り”をすることで、自分は優しい人間なのだと思い込みたいだけだから。



(私のことなんて……私のことなんて、何も知らないくせに……心配してますなんて顔するんじゃないわよ、この偽善者が)

その取り澄ました偽善者面を思いっきり引剥がしてやりたい。そんな強い衝動に駆られた私は、自分でも思いもかけなかった行動に出た。

「ねえ…」

ちらりと流し目をくれてやって、私の手を掴んだままのシンジの左手を引き剥がした。そのままシンジのその手を私の胸元に持っていく。

右の乳房にシンジの手が触れた。

「え………」

あわてて引っ込めようとするシンジの手を、私はぎゅっと掴んで逃がさなかった。そのままシンジの手を使って乳房をこね回す。

「惣流さん……何を……」

びっくりしたような顔で、シンジが私を見つめる。ふん、間抜けな顔しちゃって…。いかにも驚いてますって態だけど、こいつはそんな“振り”をしているだ け…。

その証拠に、こいつは自分の手を掴んでいる私の手を振り解こうとはしない。こうしていれば、私の胸をまさぐっているのは自分の意思ではなく、私にそうさせ られているからという言い訳が立つものね…。卑怯な男。

「役立たずの私でも、無敵のサードチルドレン様の生理的な欲求の解消くらいは手伝えるわ……。エヴァを動かせないんですもの、せめてそれくらいは役に立た ないとね………」

「……………………」

「好きなこと……していいのよ……」

媚を含んだ声で私はシンジを挑発した。が、臆病なこいつは困ったような表情を浮かべるだけで、私の挑発に乗ろうとはしなかった。

「やめようよ。惣流さん、今酔ってるから………」

ちっ、面倒くさい男。さっさと私の体を好きにしなさいよ。そうすれば――私、あんたのことを思いっ切り侮蔑できるから。

成績優秀のエースパイロットだなんて言っても、所詮は女の子が弱っていることに漬け込んで、欲望を満たすような卑劣漢なのだと軽蔑することができるから。

私は、私のプライドを粉々にしたこいつを蔑む拠り所を得るためだけに、こいつの前に体を投げ出そうとしていた。

そこには、大嫌いなこいつに好きにされることで、エヴァを動かすことができない不甲斐ない自分を罰したいという思いもあったのかもしれない。

「ねえ、これ以上私に恥を掻かせないで……」

ふらふらと椅子から立ち上がってシンジに体を密着させる。下腹部に何か堅いものが当たる感触があった。

(ふん……体は正直なものね………)

私はシンジの興奮を煽るために、その堅いものに腰を押し付けようとした。が、すでに大量のアルコール分を摂取した私の足は平衡を維持することができず、私 は無様に床に倒れこんでしまった。

「あ、惣流さん、大丈…夫?」

そう声をかけたシンジの目が私の体の一点にじっと注がれていた。

シンジの視線の先にはスカートがまくれあがったため露になった私の下着があった。シンジの目にすっと欲望の影が走ったのを私は見逃さなかった。

(このむっつりスケベが……)

内心でほくそ笑み、床に転がったまま無言でブラウスのボタンを外した。乳房を覆う白いブラをことさらにシンジに見せ付けながら、フロントにあるそのホック を外す。

「ん………」

白く、豊かな乳房が枷から開放された、その刹那――

私の体にシンジが覆いかぶさってきた。

「はあ……はあ………」

荒い息をつきながら、シンジがのろのろと私の乳房に手を伸ばす。

その指が乳房に触れようとする寸前、まるで何か辛いことを思い出したかのようにシンジの顔が歪んだ。

その口から微かな、本当に微かな声で「最低だ…俺って…」と呟く声が私の耳に届いた。

やがて――

まるで体内の劣情を放出するかのように、長々と息を吐くと、シンジはゆっくりと立ち上がった。私の顔から視線をそらせたまま「ごめん……」と詫びる。

「僕…もう帰るね……惣流さんがお酒飲んでたこと、ミサトさんには内緒にしておくから……」

私に背を向けてそう言ったシンジは、こちらを振り向くことなく、そそくさとマンションを後にした。


まるで、逃げ出すように。




<SHINJI>


コンフォート17マンションを出てしばらくしくしたところで僕は足を止めた。その場に立ったまま、つい先ほどアスカが見せた媚態を思い起こす。

くっきりと目に焼きついているアスカの柔らかそうな乳房を意識しただけで、性器が固く立ち上がってきた。

自分を好きにして良いというアスカの言葉を拒めたのは、僕が聖人君子だからではなかった。

あの時、組み敷いたアスカの形の良い乳房を目の当たりにしたとき、フラッシュバックのように唐突に頭に浮かんだ映像があった。



白い壁に囲まれた無機質な病室の中で、焦点の合わない視線を中空に彷徨わせたまま のアスカ。

その彼女を揺さぶる僕の手。

はだけるパジャマ。

そこから覗くアスカの白い乳房。

乱れた衣服を整えるどころか、欲望に急き立てられるまま自分の性器を擦りあげる 僕。

驚くほど大量に噴き出る精液。

その一部は受け止めた指の隙間からこぼれて、アスカの身 体にかかる。
まるでー彼女の尊厳を汚すかのように。


(………………)

その映像が僕を掣肘しなかったら、欲望のままに彼女の身体を貪っていたに違いなかった。

(今夜辺り、またあの時の事を夢に見そうだな………)

そうなったら、僕は夢の中でアスカをさんざんに陵辱し尽くすことだろう。今日リツコさんから貰ったばかりの睡眠薬が、早速役に立つことになりそうだ。

アレがあれば、夢など見ないで死のように深い眠りにつくことができる。

そう考えたとき、僕は薬をミサトさんの部屋に忘れてきたことに気がついた。

(どうしよう…取りに戻ろうか…)

あんなことがあったすぐ後で、またアスカと顔を合わせるのが気まずくて、僕は薬を取りに戻るべきか悩んだ。

しかし、モノがモノだけにリツコさんもそうそう処方してはくれないだろう。今あの薬を手に入れないと、また何日も眠れない日々が続くことになる。

そう考えた僕は薬を取りに帰ることに決めて、たった今通ったばかりの道を引き返し始めた。




<ASUKA>


「…………………………………」

シンジの体重の余韻が残る上体を起すと、私は自嘲の笑みを浮かべた。

惨めだった。娼婦の真似事のようなことをして、好きでもない相手に秋波を送ったというのに、アイツは私を抱こうとはしなかった。

(つまりは、タダでも抱く値打ちすらないというわけか、この私は……)

過剰に摂取したアルコールでふらつく身体に苦戦しながら、よろよろと立ち上がる。水を飲もうとキッチンに足を運んだ私は、テーブルの上に見慣れぬ白い紙袋 が置かれていることに気がついた。

手にとると『内服薬』という文字と、碇シンジという名前が視界に入った。

(……なにこれ?シンジの忘れ物?…薬?はん…インポの治療薬とか?)

私を抱こうとしなかった男をせせら笑っておいて、私は袋の中身をテーブルの上にぶちまけた。

中にあったのはカプセル状の薬品が6錠ほどと、その用法上の注 意を記したメモだった。何の薬か気になったので、私はそのメモに手を伸ばした。

酔いで目の焦点が遠くなったり近くなったりしたため、小さな字で書かれたそ の注意書きを読むのには、思いのほか時間がかかった。

(睡眠……薬…?)

そうと分かった瞬間、心臓が鼓動 を一つスキップさせた。この薬を使えば、私はもうこんな苦しい思いをしなくてもすむかもしれない。

「…………………」

私は薬のカプセルをすべてパッケージから取り出すと、その一つを口に含んだ。テーブルの上にあったジンの瓶を掴むと、それで薬を胃に流し込む。

仮にもチル ドレンに処方された薬だ。普通に飲んだのでは、全てを一度に飲んだとしても大事には至らないようにできているかもしれない。

でも、こうして大量の強い酒と一 緒に摂取したら――

ジンが胃壁を灼き、身体の防衛反応が限界以上に摂取されたアルコールを嘔吐させようとする。それを宥めながら私は2錠目の薬を口にした。それもまたジンで 流し込む。

薬、ジン、薬、ジンというローテーションで5錠目までを飲んだ。意識がぼんやりしてきたのは、薬の所為か、それともアルコールの所為だろうか。

(………これで、お・し・ま・い)

最後の一錠を口に含もうとした私は、薬を持った手が誰かに掴まれるのを感じた。

(え?………)

のろのろと振り返ると、そこに帰ったはずのシンジが立っていた。

「何を…………」

「………………」

「何をしているんだ…君は」

怒鳴った。

シンジが。




<SHINJI>


つい先ほど後にしたばかりの 『11―A―2』号室のドアの前に立って、僕はインターホンを鳴らした。今度もまた応えがない。

ドアノブに手を伸ばすと、さっき僕が出て行ったまま鍵はかかっていなかった。

「惣流さん?」

ドアを開け、玄関口から中に向かって声をかけたが反応はなかった。もっとも、さっきあんなことがあったばかりなので、僕の声が届いていてもアスカは無視し ているのかもしれない。

アスカに見咎められたら非礼を詫びる事にして、僕はまたも無断で上がりこむことにした。僕が薬を置き忘れたのは確かダイニングの テーブルの上のはずだからまっすぐにそこを目指す。

が――

ダイニングで僕が目に入ったのは、僕が忘れた睡眠薬を酒で流し込むアスカの姿だった。

「何を…………」

須臾の間、目の前の光景の意味がつかめなかった。

一瞬の呆然の後、それが何を意味しているかを悟った僕は、彼女のそのあまりに分別のない行動に頭に血が上 るのを感じた。

「何をしているんだ…君は」

打算も、私心も投げ捨てて、純粋な怒気の塊となった僕は、彼女の胸倉を掴むと強引に立たせた。

そのまま文字通り引き摺るようにして彼女を浴室まで連れて行く。シャ ワーを全開にして水を勢い良く流しておいて、僕は彼女の口の中に指を突っ込んだ。

「吐け。吐くんだよ」

アスカが苦しそうに呻くのを無視して、躊躇することなく指を喉の奥に押し込む。げぼっという音と共に、アスカの口から吐瀉物が迸った。

二度、三度とアスカは胃 液を逆流させたが、酒ばかりを摂取して、何も食べていなかったためそこに固形物は含まれていなかった。すっぱい匂いが立ち込める浴室の中で、僕は彼女の吐 瀉物の中を手で探った。

その僕の指先がいくつかの固いものに触れる。睡眠薬のカプセルだ。

発見が早かったため、睡眠薬のカプセル剤はどれもまだ溶けてはいなかっ た。

ほっと安堵の息を吐くと、僕は立ち上がってシャワーでアスカの嘔吐物を流した。同時に汚れた手を石鹸で洗う。僕もアスカも、シャワーの水ですっかりび しょ濡れになっていた。

「…………」

ようやく人心地ついた僕は、浴室の床に座り込んで脱力したままのアスカに視線を向けた。彼女の長い髪の毛先からシャワーの水がぽとりぽとりと水滴となって 滴っている。なんだか随分と彼女が稚く見えた。

「……濡れたついでに…シャワー浴びるといいよ」

先ほどまでの激情は既に僕の身体から去っており、平静な口調で僕はそう告げた。アスカはじっとしたまま床面を見つめている。

浴室の中にかみそりなどの刃物がないことだけを素早く確認して、僕はそこを後にした。

浴室の扉を閉める瞬間、アスカの嗚咽する声が僕の鼓膜を振るわせた。



<ASUKA>


「………………………」


シンジが浴室を出て行くのと同時に、今まで固く張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れるのを私は感じた。

胸の奥のほうから熱い何かがこみ上げてきて、涙が一筋、頬を伝う。

涙の雫が浴室の床に落ちて小さくはねた瞬間、堰を切ったように涙が次々とあふれた。

「う……あ………あ……」

嗚咽が、瞬くうちに慟哭へと変じていた。



「う……ううっ……あ…あ…ぅ…あ…くっ…あぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁ……あぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁっぁぁぁ くっぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………」



全身を使って――


ありったけの声で――


吼えるように――


叫ぶように――


泣いた。



思いきり、泣いた。




<SHINJI>


アスカが浴室から出てきたのは、一時間ほどしてのことだった。

着替えも済ませ、こざっぱりした様子のアスカは、顔色こそまだ悪かったものの、どうにか自分 を取り戻したようだった。

「惣流さん、これ…」

ダイニングに入ってきたアスカに、僕は大ぶりのグラスに入った冷たい水を手渡した。

「アルコールを摂ったら、水分をたっぷり補給しないと二日酔いを起すから」

「……………」

僕の言葉に、アスカは無言でグラスの水を飲み干した。彼女の白い喉がこくこくと動いて水を飲み下す様は、妙にエロティックだった。

「後、ついでにこれも飲んでおいたほうがいい」

空になったグラスを受け取るのと引き換えに彼女に渡したのは、冷蔵庫の中に入っていた二日酔いの内服液だった。ミサトさんの常備薬だ。

「……………」

僕が渡した薬をアスカがまたも無言で飲み干した。ミサトさんのマンションの中でこうしてアスカの面倒を見ていると、まるで“前”の時に戻ったかのようだっ た。

「あ、そうそう、惣流さん、お酒ばかりで何も食べていなかったんでしょ?お腹空いていない?惣流さんがシャワー浴びてる間にスープ作ったんだけど…」

僕がそう言うと、アスカは無言のまま、ほんの少し意外そうな顔で僕を見た。

「なんか、勝手に台所拝借して申し訳ないけど、ミサトさんなら構わないって言ってくれると思ったから……」

どことなく言い訳がましく言って、僕は鍋の中の野菜スープを皿に注いでアスカの前に置いた。

薄く湯気を立てるそのスープをアスカは不思議そうに見つめた。逡巡したものの、結局スプーンを手にしたのは、酷く空腹だったからだろう。

一口すすって彼女の表情が変わった。

「これ………」

「どうかした?」

「………………」

僕の質問に応えず、アスカは再びスープを口に含んだ。その顔に何かを思い出すような表情が浮かぶ。慎重に嚥下した後、スプーンを持つアスカの手の動きが早 くなった。

「これ……このスープ……」

アスカがそう言ったのは皿の中身を全て飲み干してからのことだった。

「これ……小さかった私が熱を出したりしたときに、死んだママがよく作ってくれたスープと同じ……」

「へえ、そうだったんだ。…すごい偶然だね」

僕はそう応じたが、決して偶然ではないということを僕が誰よりもよく知っていた。

“前”の時、僕はアスカからのリクエストでこのスープを何度か作らされたことが あった。彼女のお母さんと同じ味が出せるまで、アスカは僕に何度も作り直しを命じたものだ。

今のアスカにとっては、このスープは何よりの良薬になるだろう。そう考えて、僕は、彼女が浴室にいる時間を利用してその調理に取り掛かっていた。幸いなこ とに材料はすべてあった。もともと、特別な材料を必要とするような料理でも無かったから、作るのに造作は無かった。

「もしかしてさ、、惣流さんのお母さんが惣流さんを元気付けるために、僕の体を使ってこのスープを惣流さんに作ったのかもしれないね……」

「ママが……?」

そう呟くとアスカはじっと何かを考え込む表情になった。

「そうでも考えないと、説明がつかないでしょ、こんな偶然」

「…………………」

「きっと惣流さんのお母さんは、惣流さんの事を見守ってくれているんだと思う…」

「…………………」

「目に見えない絆で繋がってるんだよ、惣流さんとお母さんは……」

「絆?」

考え込んでいたアスカが、その言葉に、つと顔を上げた。

「そう、絆…」

絆…と声に出さずに呟いて、アスカは空になった皿をじっと見つめた。まるでそこに誰かの顔が浮かんでいるかのように。

「…………私……ずっと一人ぼっちだと思ってた」

ぽつんとアスカが呟く。

過去形で発せられたその言葉は、今は彼女がそう思っていないことの証拠だった。彼女の顔に視線を走らせると、そこに疲れの色はあっ たものの、生きることに倦んだような影は見つけることができなかった。

「………もう遅いから、僕は帰るね。お鍋の中にはまださっきのスープが残ってるから、明日の朝にでも温めなおして飲むといいよ。それじゃあ、また明日、本 部で」

立ち上がって玄関に向けて一歩を踏み出した僕は、そこで止まってアスカを振り返った。

「あ、そうだ。なんだったら明日、迎えに来ようか?」

「………………」


僕の問いかけにアスカは黙ったまま一つ頷いた。




<MAYA>


米国から空輸されてきたエヴァ四号機は、予定よりも18分遅れで本部に到着した。


搬入されると同時に機体に異常がないかの検査を行い、それと平行してフォースチルドレンのパーソナルデータに合わせてのコアの調整も進める。

息つく間もな いほどの忙しさに目が回りそうになりながらも、実験開始予定時刻の30分前にはどうにか全ての作業を終了させることができた。

コーヒーを一杯だけ飲んで僅 かな休憩を取った私は、新しいプラグスーツを手にパイロット控え室を訪れていた。

「はい、ヒカリちゃん。これ新しいスーツね」

アスカが着用しているものと同じデザインのスーツを彼女に手渡す。

「あ…ありがとうございます」

ぎこちなく礼を述べるヒカリちゃんの顔を覗き込むようにして、私は微笑んだ。

「ヒカリちゃん、緊張してる?」

「ええ…かなり」

私に向ける笑顔はぎこちなく、彼女の言葉に嘘はないようだった。

「大丈夫よ、リラックスして。四号機の機体には何の異常も見られなかったし、コアのほうもヒカリちゃんのパーソナルデータ―に合わせて調整したから。問題 なく起動できるわ」

「はあ…………」

そんな言葉でリラックスできるはずもなく、ヒカリちゃんはどこか困ったような顔で笑みを浮かべた。女の子らしいその表情を、私は可愛いと思った。

彼女と知 り合ってまだ一週間ほどにしかならないが、ごく大人しい、家庭的なこの女の子のことを、私は妹のように思っていた。

彼女も私のことを気に入ってくれているよ うで、知り合ってからの短い期間で、私たちはよく話しをするようになっていた。私がわざわざプラグスーツを持ってきたのは、そのことを知っている葛城さん が、ヒカリちゃんの緊張を少しでも解くために命じたものだ。彼女をリラックスさせるのも私の仕事だった。

「そうそう、この前ヒカリちゃん、日向君や青葉君にお弁当を差し入れてたでしょ?あの二人、それにすごく感激して、今日の実験が成功したらお祝いに食事に 連れてってくれるそうよ。さっき発令所で二人で相談してたわ」

「え…そんな……」

「この際遠慮しないでご馳走になりなさい。あの二人、結構お金持ってるんだから。なにしろ忙しいでしょ。だからお金使う暇がないから溜まる一方」

そう言って笑うと、ヒカリちゃんの表情も和らいだ。

「あの…ネルフって、いい人が多いですね」

「あ、もしかして怖い人ばかりだと思ってた?」

「………少し」

無理もないわねぇと言って私は肩をすくめて見せた。

「まあ、司令は確かにやたらと威圧感のある人だけど、でも他の人たちは皆気さくな人ばかりよ。スタッフの平均年齢が若い所為もあると思うけど」

「ええ」

「スタッフだけじゃなくて、チルドレンもいい子ばかりよね。アスカも、それからシンジ君も…」

私の口からシンジ君の名前が出た瞬間だった。ヒカリちゃんの表情がさっと曇ったのは。

「あ……どうかした?ヒカリちゃん」

「いえ……何でもありません」

全然なんでもなくない顔で答えたヒカリちゃんの顔からは、さっきまでの柔らかな雰囲気は拭いさられていた。


(ヒカリちゃん……シンジ君と何かあったのかしら………?)



<ASUKA>


「これよりエヴァ四号機の起動実験を開始します」

リツコのその言葉が起動実験開始の合図だった。時刻は15時30分。定刻どおりだ。

私は発令所の隅で、スクリーンの中の四号機を見つめた。私の横にはシンジが立ってスクリーンを見つめている。私もシンジも、事故などに備えて本部に待機す るようミサトから命じられていた。

四号機は制式タイプのエヴァとしては弐号機、参号機に続く3番目の機体となる。このため頭部を除けば弐号機と同じデザインをしていた。頭部のほうはむしろ 初号機に近いだろう。初号機から角 を除いたようなデザインだ。ボディーカラーはシルバー。

「エントリープラグ、挿入」

スクリーンの中、プラグが螺旋を描きながらエヴァの機体の中に挿入される。

「プラグ、挿入されました」

「そう。フォースチルドレンの様子はどう?」

「かなり緊張しているようですが、それ以外問題はありません」

マヤの報告を聞きながら、私はプラグの中にいる親友の顔を思った。私の脳裏に浮かぶヒカリの顔は常に柔らかな笑みを浮かべていて、緊張に引き攣った彼女の 顔 というのは想像しがたい。

「了解。第一次接続開始」

「第一次接続開始します」

日向二尉の指がコンソールの上を走る。

「A10神経接続、異常なし」

「初期コンタクト、全て問題なし」

「双方向回線、開きます」

「フォーマットをフェイズ2へ移行」

「第2次コンタクト、開始します」

作業は順調だった。流れるように進んで一瞬の遅滞もない。そのスムーズさに、私は実験の成功を直感的に確信していた。と同時に、その確信は私を気鬱にす る。

だから――

私は誰にも何も告げず、そっと中央発令所を抜け出した。起動成功の瞬間は見たくなかった。

(さて………)

廊下に出て、一体どこで時間をつぶしたものかと、私が思案したとき、背後でプシュッとエアコンプレッサーの作動する音がした。振り返れば、開いたドアから シンジが出てきた。酷く顔色が悪い。

「…どうしたの?」

尋常ではないシンジの様子が気になった。昨日までの私なら、そんな彼を見ても無視していただろうなと、ちらりと頭の片隅で思った。偶然とはいえ、私にママ のあのスープを口にする機会を作ってくれた事に関しては、素直にシンジに感謝していた。

「ん…多分、惣流さんと同じ…。僕も…見たくないんだ。四号機の起動が成功してしまう瞬間を…」

「そう………」

私は兎も角、何故シンジが四号機の起動を見たくないのかは見当もつかなかったが、多分、きっとそれなりの理由があるのだろう。でなければ『四号機が起動す る瞬間』ではなく、『四号機が起動してしまう瞬間』などという表現をしたりするはずがない。気にはなったが、詮索する気にはなれなかっ た。

「ねえ…私、起動実験が終わるまで、地下の第三休憩室で時間つぶすけど、シンジはどうするの?」

第三休憩室は、普段でもあまり利用者がいない。四号機の起動実験が行われている今はおそらく無人のはずで、一人になりたい今の私にとっては都合がよかっ た。

「だったら、僕もご一緒してもいいかな?」

「ん………構わないわ……」


私はシンジと肩を並べるようにして、長い廊下をエレベーターホー ルの方に向かって歩き出した。




<RITSUKO>


「A10神経接続、異常なし」

「初期コンタクト、全て問題なし」

「双方向回線、開きます」

「フォーマットをフェイズ2へ移行」

「第2次コンタクト、開始します」

作業は順調だった。今までに初号機、零号機と二体のエヴァの起動作業を行い、スタッフも手馴れてきている上に、起動実験に先立ってフォースチルドレンの パーソナルデータを収集できていたことも大きかった。

「絶対境界線、突破します」

「絶対境界線、突破!」

15時52分。エヴァ四号機は恙無く起動に成功した。

「続いて機体連動試験に移行します」

そう宣言して、私はコンソールの上のスイッチを押す。


その瞬間、全ての電源が落ちた。



<ASUKA>


発令所のあるフロアから七フロア分下降して、私たちはエレベータ―を降りた。

地下の第三休憩コーナーへ行くには、途中で一度エレベーターを乗り換える必要があった。

本部施設はピラミッド状の形をしているので空間に無駄がある。この ため、場所によっては一度エレベータを降りた後、廊下を渡って他のエレベーターに乗り継がないと行き着けないようになっていた。たぶん、侵入者に対する備 えという意味合いもあるのだろう。

私とシンジは廊下を50メートルほど移動して、二基目のエレベーターに乗り込んだ。シンジの指が目的のフロアの階数ボタンを押す。程なく私たちを乗せたエ レベーターはするすると下降を始めた。

そういえば――

以前こうしてシンジとエレベーターで二人きりになったとき、私はシンジに暴言を吐いたことがあった。

『心を開かなければエヴァは動かない』

不調に苦しむ私にシンジがかけたこの言葉に反発して、私は彼を『好きな女の子を犠牲にして自分だけ助かった腰抜けの癖に!』と罵ったのだ。

考えてみれば、その時の暴言をいまだ詫びてはいなかった。

「あの…シンジ……」

おずおずと――

私が口を開いた瞬間だった。

エレベーターが突然停止した。

「停……電…?」

照明も落ちたために、真っ暗闇になったケージのなかで、シンジが戸惑ったような声を上げた。




<MISATO>


当初は実験のトラブルが原因で生じた停電だと私は思っていた。

だが、電源が落ちてから既に40分が経つと言うのに、一向に復旧される気配がない。考えるまでもなく異常な事態だった。

ネルフ本部のあるこのジオフロント は幾重にもセキュリティーが施されている。正・副・予備の3系統の電源が全て落ちるなど、ありえない事態だった。

だが、今現実に全ての電源は落ちている。 となると――

「…まず間違いなく、電源は落ちたのではなく、落とされたと見るべきね。人為的に」

私の視線を受けて、リツコが断じた。

「目的は?」

「多分、電気の復旧ラインを基にして本部の構造を探るのが狙いでしょうね」

「小癪なことを」

「四号機の起動実験に合わせて事を起したのも、実験のトラブルだとこちらに誤認させるためね、きっと」

「生きている回線はどれくらいなの?リツコ」

「2%強というところね。マギの維持と、それから四号機へ生命維持が可能なだけの電力を供給するだけでほぼ手一杯よ」

「参ったわね……」

本部の機能は完全に麻痺したといってよい。こんなときに使徒でも攻め寄せてきたら――

私がそう考えたときだった。

「た、大変です!」

中央発令所のドアを無理やり手でこじ開けて、保安部のスタッフが一人、文字通り転がり込んできた。

「どうしたの?あなた確か――」

名前は思い浮かばなかったが、副司令のSPをしているスタッフだ。だが、今日は副司令は上の街で市議会に参加しているはずで、その副司令についているはず の彼がこんなところに現れるわけがない。

「どうしたの?まさか副司令の身に何か?」

不吉な予想に顔色を変える私の目の前で、その保安部員は首を横に振った。

「いえ、そうではありません。使徒が…使徒がこちらに向かっています!」

「………………」

「………………」

「………………」

私も――

リツコも――

マヤちゃんも、日向君も、青葉君も――

皆言葉を失った。まさに凶報だった。

愕然とする私たちの目の前で保安部員はさらに語った。それによると、上の街でも大規模な停電が発生して混乱が広がって いるという。そこへ戦自の飛行機が使徒の接近を連絡してきたらしい。

「何とか本部と連絡をとろうとしたんですが、どうしても連絡がつかなかったので――」

彼が車を使って、直接本部に乗り込んで知らせに来たとのことだ。

「で、使徒は今どの辺りに?」

「既に第三新東京市内に侵入しています」

「なっ…………」

完全に後手にまわってしまっていた。

「どうするの、ミサト?今の責任者はあなたよ」

副司令は上の街で不在、司令も出張中で留守にしていた。

「すぐにエヴァを迎撃に出すわ。直ちに発進準備に取り掛かって」

「どうやって?動力がないのよ?」

「緊急用のディーゼルがあるわ。それを使いましょう」

「なるほど、人の手で起動させるというわけね」

「ということで、すぐにプラグスーツに着替えて、シンジ君。アスカ」

が――

私のその言葉に返事は返ってこなかった。

「シンジ君?アスカ?」

二人の名前を呼びかけながら私は発令所の中を見渡した。けれど、ごく一部の非常灯しか点いていない薄暗い室内に、私の求める顔はなかった。

「二人は?どこへ行ったの?」

私の問いかけに、その場にいた全員が顔を見合わせた。誰も気がつかないうちに発令所を出て行ったらしい。

「もう、この非常時に……」

短く舌打ちした私は、皆で手分けして二人を探すように指示を出した。

しかし――

10分が過ぎても二人の行方は杳として知れなかった。こういうときは本部の大きさが恨めしい。

「全くもう、あの二人はどこをほっつき歩いてるのよ」

苛立ちと焦慮で気持ちがささくれ立つ。

「どうする、ミサト?もう時間が無いわ」

さすがにリツコの表情も硬い。私は深呼吸を一つして気持ちを落ち着けると一つの決断を口にした。


「四号機を、出撃させるわ」


to be continued



後書き

 第10話を投稿した段階で11話も書けていたんですが、出来上がりが不満だったので、一から書き直しました。トホホ…

しかもこんな長い話になるとは…

第12話はぐっと短くなる模様。そしてその12話には、久しぶりに“彼女”がちょっとだけ登場の『予定』……





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