sweet days
episode : 4  when a boy loves a girl












チェロは物置の片隅で埃かぶっていた。
小学生のときから使っていたそれは子供用の3/4サイズで、中二の男の子が使うには小さめだったが、中二の男の子にしては小柄なシンジなら弾けなくもなかった。
できるなら音の深みがばっちりと出る4/4のフルサイズで弾きたいけれど、ないものはしょうがない。
両親にねだれば買ってもらえるかもしれないが、下手に勘違いされたらもっと困る。



チェロをやめたいとシンジが言い出したとき、最初は反対していたユイが最後に言ったのは「好きにしなさい」だった。
「好きにしなさい」ってどういうことだよとシンジは言って、「だから好きなようにしたら良いでしょう」とユイは言った。
そんなユイの態度になにか消化しきれないモヤモヤを感じたのを、今でも覚えている。
うまく言えないが、そういう言葉を聞きたかったのではないのだ。

もちろん、そんなあやふやなシンジでは教育熱心な母親を納得させられない。
反対にユイを説得できるほど自分のことが分かっていたら、チェロをやめる必要もなかったかもしれない。
とにかくシンジは「好きにしなさい」と言われ「好きに」した。
「好きに」するしかなかった。

やりたくないのならやらなくていい。
またやりたくなったらいつでも言いなさい、そのときのためにチェロは取っておく。

そんなゲンドウの命令に素直に従って、チェロは物置の奥でうらぶれていたのだ。



地は黒いのに灰色の埃が溜まったケースを、咳き込みながらぞうきんで拭いた。
ずっと手入れもしていないチェロは、弦が張られたままだった。
張りっぱなしの弦はもう限界を迎えて、三本がブツリとちぎれていた。





買ってきた弦を早速張って、調弦をすませると、一年半ぶりに弓を持つ手が震えていた。
気を落ち着かせるため、大きく深呼吸をする。
今日は土曜日、両親はそろって買い物に出かけていて、夕方まで家には自分ひとりだ。
だから心行くまま弾けるはずなのに、なかなか最初の一歩が踏ん切りつかない。

窓辺に飾られたマリーゴールドの鉢植えを見て、もう一度胸いっぱいに空気を吸い込む。
弓をわずかに弦にふれさせると、低い音が鳴った。

その音に触発されたように、右手が動き出す。
一度音が生まれると、後は自然と旋律が育っていった。










――後ろから拍手が聞こえた。

「かあさん…」
「無伴奏チェロ組曲、バッハね。
 シンちゃんバッハ好きだったものね」

いつからそこにいたのか買い物かごをひじに提げたまま、部屋のドアにもたれてユイが手を叩いていた。
気づけば、部屋が暗くなるのも忘れて弾いていた。

「…いつ帰ってきたんだよ」
「あら、ちゃんとただいまって言いましたよ。
 集中してて分からなかったんでしょ」
「ちぇっ」

舌打ちしながらシンジは弓を置いて、チェロをケースにしまった。



「すぐ、やめるのね」
シンジの手がピクッと止まる。
「あなたのチェロ、悪くないわよ。
 母さんが言っても信じてくれないでしょうけど」
「そんなことないよ」
「……今晩、ビーフシチューだから」

それだけ言い残して、ユイは部屋から去っていった。
様子はどうかと尋ねるゲンドウの声が、居間のほうから聞こえてきた。
音がしないように、そっとドアを閉める。
久しぶりに自分の使命を全うしたチェロは、どこか満足そうだった。




















その日の7時前に電話はかかってきた。もうすぐ夕食という時だった。
シンジはそのとき部屋で本を読んでいて、部屋の中は静かだった。
閉じたクローゼットにはチェロのケースが誇らしげに立てかけられていた。
電話だと呼ぶユイの声は十分聞こえてきたけれど、居間まで行くのがかったるくて動き出すのに若干の間が空いていた。

シンジは携帯電話を持っていなかった。
普段からあまり電話しないし好きでもなかったため、欲しいなんて思ったこともないけれど、こういうときはあったら便利だなぁと思う。
わざわざ電話のあるところまで出向く必要がないのだし、なにより居間だと会話が両親に筒抜けなのだ。
向こうは聞いてなんかいないかもしれないが、こういうのは気持ちの問題だ。
そうでなくてもこの日、あまり両親に顔を合わせたくはないのに。

いつまでもグズグズしたって仕方ないから、立ち上がって居間に向かう。
電話に出ると、威勢のいい声が鼓膜を突き破るほどの勢いで聞こえてきた。

「何やってんのよあんた!
 ったく。急いでるんだから早く出なさいよ」

こんなこと言ってくるのは、アスカだった。

「…ナンの用だよ」
「今すぐ来て」
「はぁ?」
「いいから来て。駅にいるから。いい? すぐによ。す・ぐ」
「今すぐって、もうすぐ夕飯なんだけど…」
「待ってるから」

こちらの言葉には耳も傾けずに告げることだけ告げて、一方的に電話は切られてしまった。
せっぱ詰まった声をしていたし、急ぎの用なのは伝わってきたけど、なんの用なのか一言くらい言ってくれてもいいものを。
かといって行かなきゃ行かないで後々面倒だし、しょうがないから行ってやることにするかと、シンジは3秒ほどで決めていた。
部屋に戻りチェロをどかしてクローゼットを開いて、その中から真冬用の厚手のコートを取り出した。



「あら、どこ行くのよ。こんな時間に」
「ちょっと、」
「アスカちゃん?」
「すぐ帰ってくるよ」

深くは追求しないのをいいことに、母親をそこそこにあしらってシンジは玄関を出た。
ちゃんとコートを着込んでいるのに、表は思わず身震いしてしまうほど冷え込んでいる。
秋の寒気を甘く見すぎていたけれど今さら着替えるのも時間がかかるし、なにも寒い中で何時間も過ごすわけじゃないだろうと、そのまま車庫に向かった。
そこにはほとんど使っていない、少し錆びついた自転車が停めてある。










久しぶりの自転車は手間取って、それでも歩くよりはずっと速く、10分ほどで駅前についた。
立体になった駅前広場とバスターミナルには絶え間なく人々が流れ、デパートの強い光が目を刺激する。
そのデパートの正面玄関に、アスカはいた。
ガラス戸の向こう暖房の効いた室内で、壁を背にして左ひざを曲げている。
隣りにはもう一人、マナがうつむき加減にたたずんでいた。
ほとんど自転車の墓場になっているような駐輪場に自転車を停め、シンジも明るい屋内に入って行った。

「間に合ったわね」
「他に言うことあるだろ…」

シンジの言葉には反応しないで、アスカはマナを肘でつついた。
玄関前ホールはこの時間込み合って、流行りのロックをピアノソロにアレンジしたBGMが流れて、吹き抜けになった天井さえも圧迫感を感じる。
三人は交通の邪魔にならないよう端により、シンジとアスカがマナをはさむような位置で佇んだ。
マナはずっと黙りっぱなしでいつもの元気はみじんも見せず、なんだか彼女らしくもなかった。

やがてマナはポツリポツリと話し始めた。

「別れたの」

せわしなく行き交う雑踏に飲まれそうな、か弱い声をしていた。

「あたしのこと、好きじゃないんだって」
「あいつが? そんなこと言ったの?」
「一人で盛り上がって、ばかみたいだよね」
「いつのことだよ」
「あたしだけなんも知らなかったみたい」
「………いや、だから…」
「いろいろあんのよ」

マナに任しておくとちっとも話が進まないからと、アスカが説明しだした。
間にはさまれたマナは、まだ一人でブツブツ言っていた。





マナにとって、ムサシとは相思相愛のカップルのはずだった。

ムサシはサッカー部のエースストライカーで、誰もが目を見張るスポーツ少年だった。
歳にしては精悍な印象があり、努力家で成績も高いし、何よりしっかりした態度は教師陣にもご近所さんにも評判がいい。
まさに文武両道で何事にも積極的な少年だった。

一方でマナは、明るく可愛く愛嬌のある、ムードメーカー的存在だった。
フルートを習っていることも手伝ってか感受性が溢れるほどに豊かで、表情が常にころころと変わる、それがとても魅力的な子だ。
夢見がちで少しクセが強いところもあるけれど、無茶をやらかしてもどこか憎めなくて、おかげでみんなから愛されていた。

そんな二人だからくっついたときは誰もが祝福し、また羨んだものだった。
付き合い始めて二ヶ月ほどマナは幸せの絶頂にいて、だけどマナが幸せになればなるほどムサシはふさいでいった。

「マナといると、疲れる」

そんな理由で別れ話を切り出されたのが二日前。
なにが疲れるのか一切語らず、直して欲しいところがあるなら直すと懇願しても聞く耳持たず、一方的に突き放したのだ。



「酷いでしょ?」

マナは顔を上げて言った。
目は腫れぼったくクマが出来ていて、視線にもどこか虚ろで力がこもっていない。

「だからあたし、言ってやったの。
 結局からだ目当てだったのかって」
「…ンなとこまで進んでるの?」
「キス…くらいなら」
「…へぇ」
「いいのよ、男なんてどォせそんなことしか考えてないんだから」

とにかく三行半を突きつけたムサシはいいけれど、一方的に切り捨てられたマナのほうはたまったもんじゃない。
「あたしのなにが悪かったのよ」そう会う人会う人に駄々こねて回っていた。
音楽教室においてもそれは同じで、そしてアスカは人に愚痴られて素直に聞いていられる性格じゃなかったのが、今回の発端だった。
要するに延々とクドクド言ってるマナにブチ切れた。

「あたしに言わないであいつに言ってやりなさいよ!」

これ以上グダグダ言われるのは我慢ならない。
アスカは自分からだってガツンと言ってやるからと、マナにハッパかけたのだ。
そこでついさっき、二人は音楽教室の帰りだったのだが、ムサシを呼び出した。
けれど肝心の本人が出て来たがらず、いくら電話口で呼びかけても、めんどくさいと言うだけだった。
そんなムサシに出任せして言ったのが、シンジの名前だった。

「だってそっち女二人だろ。ずりぃよ」
「なに下らないこと気にしてんのよ。
 だったら碇くんも呼んでおくから」
「…それ悪いよ、いくらなんでも」
「そんなことないわよ。あいつだって気にしてたんだから」





「――で、僕がいるわけ」
「しょうがないじゃない。
 だってあいつ、碇くんがいないって分かったらその場で帰るわよ、絶対。
 わざわざ家に電話して、碇くんの番号調べてもらったんだからっ」

確かにアスカ、マナ、ムサシの三人に共通の男の知り合いなんて、シンジくらいしかいない。
手軽に呼び出せるという点でもうってつけだ。
――だからって僕まで巻き込むなよ
そしてお腹の空いているシンジは、他人の恋愛の行く末なんてどうでもいいから早く帰りたいなと思っていた。



ムサシが来たのは、シンジが来てそれから20分ほど経ってからだった。

「よくも散々あたしを待たせてくれたわね」

アスカはすでに目が据わっている。

「バスが来なかったんだからしょうがないだろ」

ムサシは淡々としていて、いきなり呼びつけたことにも文句一つ言わなかった。




















その駐車場は四十台ほどが収容できて、七割がたが駐車されていた。
暗くなって人気もなく、ぽっかりと浮かんだ街灯が寒々しく周りの空気を照らしていた。
ぼんやり明るくなったそこを虫が飛び回る季節でもない。
葉もそろそろ枯れ落ちて、側の立ち木はこげ茶けた葉っぱが風に揺れていた。

四人はなにも言わずこの駐車場にやって来た。
と言っても目的地として意識していたわけではなく、人前でできる話でもないからとぶらぶら歩いていたら、静まりかえったここにたどり着いただけだ。
駅前から歩いて5分のその駐車場は大きなマンションの裏手にあって、大通りから外れていたため人気もなかった。

重い雰囲気が漂ってみんな口を開かず、ムサシもマナもぶてっとした顔をしていた。
シンジもアスカも、二人のあとを黙ったまま付いて行った。
なんといっても別れたばかりの男女が一緒にいるんだから、気まずいことこの上ない。

――言いたいことあンならさっさと言ってくれよ

女の子と付き合った経験のないシンジには、なんでこんなゴチャゴチャするのか理解できなかった。

長時間外にいるとムカツク以上に体が冷えて、けれどこの雰囲気ではそれすらも言えない。
四人ほどよく距離を取って散らばって、誰かが最初の一言を発するのをただ待っていた。





やがて沈黙に耐え切れないように、マナは言った。

「…なんとか言ったらどうなのよ」
「なんとかって、呼び出されたの俺だぜ」

素っ気なくムサシが言うと、また静かになった。
無理やりその静寂を打ち消すように、ムサシは風に吹かれる落ち葉を踏みしめた。クシャッと音を立て落ち葉は壊れた。

「もう! 言いたいことあるならさっさと言いなさいよ!
 そのためにわざわざ呼び出したんでしょ」

こちらも我慢の限界のようで、アスカが言った。
その言葉に、マナより先にムサシが答える。

「なに言ったってどうせ聴かねェんだもん、コイツ」
「言いたいことあんなら大きな声で言いなさいよ!
 なに言ったってあたしに聞こえなきゃしょうがないじゃない!」

マナは思い切りアスファルトを蹴飛ばした。
ころころと小石が転がっていって、車のタイヤに当たった。

「いっつもそうでしょ。
 陰であたしの悪口、言ってたんだってね。
 なんであたしに言ってくれないのよ」
「…そういうことじゃねぇんだよ」
「じゃなんだって言うのよ。
 いつもいつもそうやって誤魔化してはぐらかして!」
「だったら少しは聴く姿勢ってものを考えろよ!
 なんなんだよ。いつもいつもぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。
 それが人の話聴く態度かよ」
「だから今は聞くって言ってんじゃん」
「嘘つくなよ。
 ちょっとでも都合の悪い話だと何も聞かないだろ。
 おまえの耳はそう出来てんだよ」



「僕たち、邪魔じゃないのかな」
シンジはそっとアスカに耳打ちした。
「いいのよ。そんなの」
アスカは人差し指を唇の前に立てて、黙ってなさいとジェスチャーし、二人に目を向けた。



「なあ、いつもそうだろ。
 自分に都合の良いようにばっかり振る舞いやがって」
「なに言うのよ!
 それはムサシじゃない」
「ふざけんな、いつ俺が」
「あたしがどっか遊びに行こうって言ってもろくな返事しないの誰よッ」
「そりゃ遊びに行きたくないからだろ」
「ホラ、自分勝手じゃない。
 あたしのことなんか考えてないしさ」
「だったら俺を勝手に連れまわすおまえは自分勝手じゃないのかよ。
 俺は別に遊びに行きたいところなんて無いんだよ」
「なんでよ、あたしたち付き合ってたんじゃなかったの」
「付き合ってなかったんじゃねェの」
「最低ね、ムサシって」
「いいかげんにしろよ!」

今までうつむいてマナの顔から意識的に目をそらせていたムサシが、初めて顔を上げた。
ムサシがどんな顔をしているのか、周りが暗くてシンジには見えなかったけれど。

「なんで要求ばっかりするんだよ。
 なんで俺がおまえのわがままに付き合ってやんなきゃなんないんだよ。
 俺はおまえのパパじゃねェんだよ」
「何よ、その言い方。
 嫌だったら嫌だってなんで言ってくれなかったじゃない」
「いきなり言えるはず無いだろ。
 あんな、バカみたいな顔して浮かれてんのに」
「じゃあどうすれば良かったのよ。
 あたしずっと待ってたのに。
 ムサシが愛してるって言ってくれるまでずっと待ってたんだもん。
 なにも言ってくれないじゃない。なにも!」
「だからなんでここに愛してるとかが出てくるんだよ」
「なんで出てきちゃいけないのよっ!」



「ハイハイ、いったんスト〜ップ」

手を叩きながら、アスカが止めに入った。
車が一台入ってきて、シンジたちのほうへと向かってきたのだ。
逃げるように四人は身近にあるワンボックスの陰に身を隠した。
ゆっくりとその車は停まり、白いヘッドライトと赤いテールランプが消えると、助手席から若い女が出てくる。
シンジたちに気づいていないのか女は運転席側に回り、中の男と窓越しに見つめ合い、軽く唇を触れ合わせていた。





車が去り、ヒールの足音を響かせながら女がマンションの裏口に消えて行くと、どっと疲れが押し寄せてきた。
熱くなりかけた体温が冷たい風に奪われて、マナもムサシも気が抜けたように地べたに座り込んだ。

「アンタたち、そりゃ無理よ」

小さい子をあやすと言うより動物をしつけるような口調で、アスカは言った。

「二人とも自分に相手をムリヤリ合わせることしか考えてないじゃない。
 歩み寄ろうって意識がないのよ」
「アスカは誰とも付き合ったことないからそんなこと言えるのよ」
「あんたねぇ…そこがだめなの。分かる?
 付き合うってお互いわがまま言うだけじゃないでしょ。
 もっと建設的なことじゃないの?」

マナがまだグチグチと言っているけれど、そんなものは無視してアスカはムサシのほうに振り返り、続けた。

「あんたも。かっこつけてばっかりじゃない。
 言いたいことくらいあんでしょ?
 ヘンなこと言ったって誰も笑ったりしないわよ」
「そんなんじゃねェよ」
「だから、言いたいことくらいあんでしょ」
「そりゃ、あるけど」
「だったらなんでもさっさと言っちゃいなさいよ。
 マナだってそれが分かんないからグジグジしてんの、
 あんた分かってんの?」
「んなこと言われたってよ…」
「もうっ、早くしなさいよ」

アスカはムサシの背中を押して、マナと間近で向かい合わせた。
そのままお互い、ピタッと黙ってしまう。
息遣いが筒抜けになりそうな距離は思考まで筒抜けになりそうで、二人ともうつむいたまま動かなかった。

「ほら、早く言ってやんなさいよ。マナも待ってんだから」

アスカが急かし、ゆっくりとムサシは口を動かした。





「おまえ、キモイ」



「一緒にいるとバカにされてるみたいでムカツク。
 寒いことばっか言って吐き気がする。
 足りない頭、蹴り殺したくなる。
 だから、一緒にいたくない」



マナは目がうるんで、しゃくりあげて、一筋の涙が頬を伝って、指で拭って、またこぼれて、追いつかなくなって、絞りだすような声が出て、鼻水が出て、顔の筋肉が緩んで、唇がゆがんで、声が止まらなくなった。
その様子をまるでスローモーションのように、シンジは見ていた。
普段は可愛い女の子でも、泣き崩れればこうも醜くなるのかとどこかで感動さえしていた。

「なに言ってんのよ!」

瞬間的にカッとなってアスカは、ムサシの肩に手を伸ばし激しく揺さぶる。
それでも体格のいいムサシに、大した衝撃を与えられない。

「なんでも言えって言うから言っただけだろ。
 気に入らなけりゃそれか」
「いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるでしょっ!」
「じゃあなんて言えば良かったんだよ!」

やけっぱちにムサシは怒鳴って、その怒声にアスカは一瞬すくむ。
マナはただ泣くばかりで、今まで見たことないようなムサシの表情にもほとんど意識を向けていないようだ。

「お前はこいつと一緒になったことがないから言ってられんだよ。
 口を開きゃぺちゃくちゃ人の話なんか聞きゃしねぇ。
 おまけに十秒に一回は『愛してる』とかほざきやがって。
 それで俺がどんだけ気持ち悪い思いしてるか想像したこともないんだろ」
「だ…だからって言い方ってモンがあるでしょ。
 もうちょっと穏やかに言いなさいよ」
「だから穏やかに言ったらすぐ『私のこと愛してないの?』なんだよこの女は!
 いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも
 いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも
 いつもいつもいつもいつもいつもーーーーーやだっ!!」

ムサシは男の子だけに、涙なんて流さない。
ただ声がひしゃげるだけ。

「14年しか生きてねェ分際で愛してるとかほざくんじゃねェよ胸くそわりぃ!」



「愛してるの、愛してるって言って、なにが、わるい、のよぉ」

しゃくりあげながら、いくつか言葉を詰まらせながら、マナが言った。

「ふざけんなよ。お前は自分しか愛してなんかいない。
 ただ愛してるって言いたいだけだろ」
「そんなこと、ないもん。
 ムサシのこと、ほんとに好きだもん
 ほんとうに、愛してるもん…」





嗚咽が人気のない駐車場に響く。
アスカはどこか気の抜けたように二人を見比べながら、右手を左手で撫でていた。
そしてシンジはマナにもムサシにもアスカに声をかけることができず、離れた場所から三人を眺めていた。
こんなときになにを言えばいいのか、なにをすればいいのか。
今まで誰も教えてくれたことなんてない。

こういうことを教えてくれる人って、どうしていないんだろうかと思った。
最後までなにもできず、蚊帳の外にいるしか出来ない自分がもどかしかった。




















「シンジ君にかっこ悪いところ見られちゃったな」

あれからすぐにムサシは帰り、泣きじゃくるマナを近場のファーストフード店に連れ込んで温かいコーヒーを飲ませると、ようやく一息ついた。
長いこと外をふらついていたせいか、寒空のした体は冷えきっていて、まだ唇が薄むらさき色して震えている。
マナのほほにはうっすらと涙の跡が通り、充血した目をこすると指に目やにがついていた。

「あんなに泣いちゃうなんて、みっともないよね」

シンジの向かいに座ったマナは照れくさそうな笑みを見せた。
マナは白くて安っぽいプラスティックのスティックでコーヒーをかき混ぜていたけれど、砂糖もミルクも入れてないそれは、さざ波が起こるだけだった。
根っからの甘党で普段ならキャラメルマキアートなマナは、明らかに気取って見える。
きっと気取ってなきゃやってられないのだろう。
余計なことは言及しない。
それが今のシンジにできる精一杯だった。

「ねぇ、愛ってなにかな」

壁一面のガラス窓にぼんやりと反射した店内は、もうほとんど客がいない。
その向こうに広がる暗い並木道は、落ち葉がひらひら風に舞っている。

「なんか、分かんなくなっちゃった」

マナの横に座ったアスカが、黙ったままコーヒーカップに口をつけた。
カップを傾けてもほとんど液体の量が減らず、ただ口もとを潤しただけ。
自動ドアの開く音が聞こえ、また一人、客が店を出て行った。

「最初はね、ちょっとかっこいいなって思ってただけなんだ。
 サッカーやってるところ、遠くから見ててね。
 顔合わせたときかっこいいねって声かけたら、アイツ、はにかんでやんの。
 なにも言えないでサ」

両手で包み込むようにコップを持って、マナはかじかんだ手を温めていた。
ポケットに入っていたレシートをシンジは握りつぶした。

「そのときの顔、すっごい可愛かったんだ。
 また、見たかったな」





帰るに帰れずシンジは閉店まで一時間ほど付き合うことになった。
400円もしないコーヒーはとっくに冷めて、四分の一ほど残した。
店員の冷ややかな視線を浴びながら店を後にする。
いつの間にやら時刻は9時を回っていた。



マナは少し情緒不安定ぎみだったけれど、送っていこうとする二人を頑として断った。
家が遠くてバスに乗らなければならないという理由もあったし、なによりそこまで迷惑かけたくもなかったのだろう。
一人になりたがる気持ちも想像できるから、無理強いはしなかった。

「ありがと、いろいろ」

バスに乗り込むとき、振り返って一言こう言った。
バスターミナルはまだまだ賑わって、けれどマナの乗り込んだバスに乗客は数えるほどしかいなかった。





「大丈夫かな」
「放っとけばいいのよ。あれだけ泣いたんだし。
 それにしても思ったよりあっけなかったのね」
「なんとなく、そんな感じはしてたけど」
「変に引きずらなきゃいいけど」



さてこれから帰ろうかとしたそのとき、自転車に乗ってきたことをシンジは思い出した。
どこに放っておいたか、ほとんど廃品の山になっている駐輪場から、おぼろげな記憶を頼りに探し出す。
引っ張り出してきたそれを見て、アスカが一言ぼそっと口にした。

「ボロいのに乗ってんのね」

シンジはちょっとムッと来たが、事実なのでなにも言えない。
もともと自転車に乗るような生活をしていないんだから、管理だってまともにしていないのだ。

「埃かぶってるしね。
 ほとんど使ってないから」
「ちょっと錆びも目立つんじゃない」

アスカの言う通り、ホイールの部分は埃とは違うなにかで黒ずんでいた。



「ねぇ、乗っけなさいよ」

シンジがサドルにまたがると、出し抜けにアスカが言った。

「…方向、違うよね……」

アスカがなにを言ったのか分からなくて、まさか送って行けということではないだろうと思って、けれど聞き違いとも思えなかったからおずおずとシンジは言った。
言葉通りシンジの家は駅から南東、アスカの家は北東の方角だった。

「いいじゃない、もう遅いんだからさぁ」

けれどアスカはそんなこと気にしない。
そう口にするなり勝手に荷台に腰掛けた。
もはや説得なんて無駄だ。

しぶしぶペダルに足をかけると、予想以上に重かった。
ただでさえ不慣れな自転車で、おまけに二人乗りなんて初めてでまごついてしまう。
それでも一度加速してしまえば、なんとか様になる程度には漕げ、そのままアスカの家まで一気に突っ走ろうとさらに力を入れた。

「ねぇ、フラフラしてるわよ」
「怖い?」
「信用できないって言ってんの」
「じゃ降りろよ」
「はぁ、つくづくムカツク男ねぇあんたって」

そのうち下り坂に差し掛かった。
スピードが早まって車体が安定し、「ひゅう」と高らかにアスカは口笛鳴らす。
その吐息がかすかにかかってシンジの耳がそよいだ。

「夜の風もいいもんね。
 前があんたってのがイマイチだけど」
「なんでそんな話になるんだよ」
「女の子の気持ちを分かる男なんていないって話でしょ」
「勝手言うなよ。
 マナだって酷いじゃないか。
 あんな調子でいつも振り回されちゃ、たまんないよ」
「なによ、あんたアイツの味方なワケ」
「そんなつもりじゃないけど」
「じゃあ、どういうつもりなのよ」
「どういうつもりもないよ…
 ただ、あいつのほうが、本当にマナのこと好きだったんじゃないのかなって」
「あんたばかぁ。
 だったらなんで別れんのよ」
「…分かんないよそんなの」
「ったく、メチャクチャ言ってんじゃないわよ」
「どうせ僕は付き合ったこともないしね」
「そうじゃなくて、そうやって冷めたところムカツクのよ」
「冷めてるかな?」
「冷めてるわよ。そんなんじゃもてないでしょうね」
「もてるとかそんなの関係ないだろ。
 それより自分はどうなんだよ」
「あたし? これでも人気あるの。
 あんたと違って」
「ふーん。良かったね」
「なによ、その気の抜けた返事。
 この間だって告白されたんだから」
「それで? OKしたの?」
「あいにくパス。
 おどおどしててハッキリしなかったし」
「ハハハ、らしいや。
 だけど僕らの歳じゃ早いって思うよね。あの二人見てたら」
「へぇ、じゃいつになったらいいって言うの? あんたは」
「いつっていうか、自然に分かるんじゃない、きっと。
 惣流がどうかは分かんないけど」
「やっぱりやぁな感じ、あんたって」



自転車は右側のライトが壊れかけて、チカチカ点滅していた。
頼りなく夜道を走って行く二人乗りの自転車。
電燈が規則的に並んでいて、力をいれて漕ぐシンジの顔が明るくなったり暗くなったり。
冷たい風に吹かれれば、サドルを握る力がわずかに強くなる。
油をさしていない自転車は、キコキコ音を鳴らしながら坂を降りていった。




















アスカを家まで送り届け、帰宅時刻はもう10時前だった。
これだけ遅くなって連絡も入れず、しかも夕食の直前に抜け出してきたことを思い出して、シンジはちょっと心配したけれど、危惧していたお小言は言われなかった。

「遅かったのね。寒かったでしょ?
 ちょっと待ってなさい。今温めるから」

そう言ってユイはなべに火をかけた。
シチューをことこと煮込む音が聞こえてきた。



「なんか風が冷たいよ、外」
「そうでしょ。今年の冬は寒くなるんですって」
「なんか毎年言ってるね、それ」
「そうね、ハイお待たせ」

食卓にシチューを盛った皿が置かれ、立ち上る湯気が食欲を刺激した。
思い返せば昼過ぎから10時間近く、何もまとまったものを食べていなかった。
牛肉の塊を口に含めば、よく煮込んであるそれは、舌の上でとろけるように形を崩す。
香ばしくて体が中から温まって、美味しかった。

「アスカちゃんと何かあったの?」

向かいにユイが座って、問い掛けてきた。
お説教はなくても、さすがに事情の一つくらい訊いてくるだろうと、シンジだって覚悟していた。
なにせすぐ帰ると言って出て、数時間もふらついていたのだ。
くだらない詮索されるのは嫌いだけれど、仕方ないかと思ってシンジも話し始める。

「惣流はなんともなかったんだけど、マナがね。
 ほら、昔よく家に来てた…」
「霧島さん、だったかしら? 彼女どうしたの?」
「フラれて泣いてた」
「へぇ、あんな可愛い子なのにね」

首の角度は傾けずに頬杖をついて、ユイが言った。
シンジはスプーンを置き、さっきからずっと気になっていたことを訊いた。

「ねぇ、女の子ってさ、やっぱり愛してるって言われたいものなの?」
「そりゃ言われないより言われた方が嬉しいわよ、誰だって」
「それが、例えばだけど、嘘だって分かってても?」
「あら、何が嘘かなんて分からないものよ。
 言った本人だって、言われた本人だって」

ユイは鼻を鳴らすように微笑んでいた。







to be continued






あとがき

がんばれ、マナちゃん

 


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