ただ、その言葉が聴きたかった。


















約束、その胸に


第拾六話 大切なものは何ですか?



















6月3日。
PM4:41。
使徒再度進攻まで、45時間19分。

普段から労働基準法で取り締まられそうなほど忙しいネルフは、過去最大の忙しさに見舞われていた。
当然といえば、当然である。
使徒戦役が始まり2ヶ月。
初めて撤退を余儀なくされた第11使徒イスラフェル。
勝つ方法は、2体のエヴァによる同点同時攻撃という天文学的な確率の手段のみ。
無茶を可能にするためパイロット達は訓練に励み、子供達を信じて大人達は準備を整える。
そんな中で最も忙しいのは、技術開発部であった。

『赤木博士! 零号機の最終チェック、完了しました!』

「分かったわ! ――アオイ、参号機の状況を報告して!」

『現在98……99――チェック終了。参号機、問題ありません!』

「じゃあそのまま弐号機に移ってちょうだい! ――マヤ!」

『左腕接合完了し、現在胸部修復中です。調整プログラムの約30%が完了しました』

「4%も遅れているじゃない! アオイ達を廻したから、あと4時間で終わらせなさい!」

『分かりました!』

「カエデ、初号機の調整プログラムはどう!?」

『現在、89%完了しました』

「頭部接合まであと10時間はかかるわ! そっちが終わり次第、零号機のパーソナルデータの調節に入って!」

『分かりました』

「青葉君、現在の使徒の状況は!?」

『以前、変化ありません。これだと予定範囲に収まりそうです』

「ありがとう。――サツキ、マギの調子はどう!?」

『現在、メルキオールの調整に入っています。カスパーの処理速度が、本来の83%ほどでした。定期健診ができないのは、結構痛手ですね』

「分かっているわ。できるだけ急いでちょうだい」

『了解』

ペンで中間報告を殴り書き、タンクを背負いマスクを下ろす。
時間がないのだ。
あらゆる点でロスする訳にはいかない。
リツコは再び冷却水に戻り、初号機の頭部接合に取り掛かった。










同時刻。
コンフォート17マンション。
11−A−5号室。
シンジの部屋。

訓練は苛烈を極めていた。
滝の汗。
肩で息を切らせながら、レイは必死に呼吸を整える。
隣で座るトウジも五十歩百歩。

「二人とも! もっと合わせて!」

ミサトの檄に顔を上げる。
技術開発部が急遽用意したユニゾンマシン。
セカンドインパクト前に流行した玩具の改造品。
その上で踊る二人。
まるでナイフのように切れのある動きのシンジ。
アスカも女性特有のしなやかさを織り交ぜた踊りを見せる。

だが、それでは訓練の意図とはまったく違う。
完全なる協調――ユニゾンこそが本来の目的。
踊りの上手い下手は関係ない。
パートナーの心を理解し、動きを合わせられることが重要なのだ。
だから――。

「……全然あかんな」

「ええ」

そういう訳である。
一人で飛ばすシンジに、アスカは必死に追いつこうと努力する。
だがズレは曲が進むほど大きくなり――。

「ストップストップ! シンジ君飛ばしすぎよ! この訓練の意図分かってんの!?」

容赦ないミサトの檄。
音楽が止められ、動きを止める二人。
肩で息を切らせるその姿は、同情すら誘う。

すでに体力の限界なのは明らかだ。
それでも休む訳には行かない。
残り時間が半分を過ぎてなお、使徒に勝つために必要な数値にはまるで達していないのだから――。

残る時間は二日とない。
光明は見えず、されど諦められるはずもなく。
分かっているからこそ焦る悪循環。
余裕などない。

「次はシンジ君とトウジ君! さあ、位置について!」

実りのない訓練は続く。
絶望を振り払うように、打ち込みながら。










同時刻。
総司令官執務室。

「――向こうが出してきた条件はそれだけか?」

「ああ」

部屋の主たる碇ゲンドウ。
対するは、ここに似つかわしくない夜祁メグミ――彼女であった。
二人きり。
話の内容も合わさり、暗い部屋に重い空気が漂う。

「まだ突き返すことも可能だ」

サングラスで目を隠し、組んだ腕で口元を隠す姿は相変わらず。
ただその口調に、どこか優しさを孕む。
そういうところは親子だな、と心の中で苦笑しておく。

「……構わんさ。それがわたしの望んだ結果だ」

「そうか」

見上げる。
天井に描かれたセフィロトの樹。
エデンの園の中央に存在したとされる、もう一つの大樹。
10のセフィラと22のパスで繋がれ形作られる。
聖書に詳しくないメグミにとって、何の感慨も浮かぶはずもなく。
だが目の前の男が神を信じているとはとても思えず、その存在に疑問を持たせる。
ただそれだけ。

「――日時は?」

「本日の夕方だ」

「……早いな」

「すまない」

ほら、自分の感想にまで謝る。
親子揃って律儀だ。

「……何がおかしい?」

今度は耐え切れず、表に出てしまったようだ。
どこか不満げな雰囲気が、口を尖らせるシンジの顔を思い出させる。
今はもう、見ることの出来ない顔を。

「いや、すまん。やはり親子なのだなと思っただけだ」

無言。
もしかしたら恥ずかしがっているのかもしれない。
なかなか新鮮な光景だ。
もう少し観察したいところだが、時間は残り少ない。
あまり遊んでいる訳には行かない。

「――しかし、一度は命を狙ってきた奴とこうも簡単に二人きりになるとは……自信か、それとも己惚れか?」

「……君はプロだ。雇われない限り、刃は向けない」

「だが貴様の知らぬところで新たに雇われた可能性もあるだろ? ――貴様など、涙姫がなくとも2秒とかかるまい」

殺気。
メグミの言う通り、彼女が本気になれば抵抗すらできないことは熟知している。
それでも姿勢を、心を崩すことなく口を開き。

「シンジにとって家族同然なら、わたしにとって娘も同然だ」

そして口元を挑発的に歪ませる。

「娘と会うのに何を心配する?」

……10年も息子をほったらかしにしておいて、何言ってんだこの親父は?
大体、鏡見たことあるのか?
そんな悪人面で笑うな、夢に出てくるだろうが。

あまりに予想外な言動に、あんまりな言葉を脳内で返すメグミ。
唖然とする彼女に満足したのか、ゲンドウは更にニヤリと笑う。
子供なら夜泣きするぞ。

「――家族ではないさ。記憶を失う以前から、奴の心は第2新東京市だ。葛城ミサトにシンちゃんと呼ばせないのもそれだ」

伏し目がちに呟くメグミ。
それは閉じ込めておきたい記憶を、掘り起こすように。

「君が名前を呼ばせないことと、何の違いがある?」

碇ゲンドウの言葉が、刃物のように入り込んだ。










同時刻。
第3新東京市郊外。

道路に落ちたタバコを踏みつける黒い革靴。
体重をかけて足を捻じり、煙は断末魔のように立ち上り、やがて世界に飲み込まれる。

「……大丈夫か?」

胸のポケットから新たなタバコを取り出し、火をつける無精髭の男。
加持リョウジ。
人の通りがまるでない山道の終わり。
久しく舗装されていないため、雑草があちこちに顔を覗かせるコンクリート。
無数の屍が、その道路を埋める。

「――さすがです、加持一尉。お手を煩わせてしまい、申し訳ありませんでした」

保安諜報部の女性が歩み寄る。
他の者達は大小様々だが手傷を負い、すでに撤退を始めている。
無傷と言えるのは彼女一人。
その表情は、どこか硬く。

「これでも監査部の人間だぞ? あまり無茶はさせないでほしいな」

特殊監査部。
内部の人間を監視する、獅子身中の虫。
最も傍にいる外の眼であり、それは敵とさえ言える。
それ故避けられるだけの存在。
だからこそ、軽い言動の加持リョウジは異質であった。

「これが無茶ですか?」

無数の屍。
断末魔一つあげることなく散っていった無数の命。
それも加持リョウジの一人の手により。
放したタバコが、地面に落ちるまでのわずかな時間で、だ。

遡ること、ほんの数分前。
マギのセンサーに引っかかった侵入者を排除すべく、保安諜報部より18名が行動。
そして『たまには仕事もしなくちゃな』という軽い口調で、加持リョウジも参加した。

――罠だった。
侵入者は一人――だが駆けつけた先には、40人以上の武装集団。
センサーの限界を逆手に取った殲滅作戦。
対してこちらは、軽武装。
完全に劣勢であった。

まるで子供を捻るように、じわりじわりと追い詰められる戦い。
いや、戦いと呼べるような代物ではない。
虐殺だ。
殺さないように傷つけ、抵抗するさまを楽しむという子供じみたゲーム。
ただそこに、人の命が関わるだけ。

『もうそれぐらいでいいんじゃないか?』

それは、この場であまりに似つかわしくない口調。
タバコを吹かし、軽く両手を挙げたまま前に出る愚行。
命乞いか自殺か。
息を呑む保安諜報部。
笑顔でノーと答える殺戮者。
そして――。

本来、戦闘力などそれほど必要としないその部署。
だからその実力は明らかに異端。
葛城ミサト、赤木リツコの二人がかりでさえ、勝負になるか分からない別次元の存在。

だからこそ油断にならない。
彼が本当に味方なのか――彼女には判断できなかった。

「俺はそろそろ子供達のところに行きたいのだが……構わないか?」

「分かりました。足を用意させていただきます」

携帯電話をかける。
横目では、屍に触れる加持リョウジを捉えながら。

「――だから続くんだろうな」

その呟きを耳にした。










「もう二日か……」

同時刻。
コンフォートマンション17。

エレベーターの中、ケンスケの呟きが木霊する。
視線は絶えず変わる階数。
隣にいるマユミの返答は、期待していなかった。

(碇君……)

マユミは思考の海に沈む。
ただ一人の人を案じて。

――碇シンジ。
閉じられた世界の扉を、壊してくれた人。
自分が壊れても、ガラスの破片のような優しさを握り締め、痛みの叫びと血を流す人。
あなたがいなければ、わたしは今ここにはいないから。
わたしはあなたの助けになりたい。
だけど――。

止まるエレベーター。
開のボタンを押すケンスケに会釈し、先に出る。
そんなマユミを追い、ケンスケは小さくため息をつく。

(参るよな、ホント……)

会話どころか目も合わない。
3mも離れてないのに、心は遠く。
こっちを向いてすらいない。

頼りにならない以前の問題だ。
辛くても、手を伸ばさないのではなく。
それさえ思いつかない。
見えていないのは、そこにいないのと同じで。
道端の石ころと変わらない自分。

辛いんだって分かる。
苦しいくらい、ずっとずっと悩んでいるって。
でも、見ていることしかできない。

助けることも。
声をかけることも。
目を閉じることさえも――。

(誰が悪いんだろうな……)

記憶を失った碇シンジ?
シンジに依存している彼女達?
記憶を奪った使徒?
戦うことを強要した大人達?
何も知らないで生きている人類?
それとも、何もできない自分?

意味のない問答は無力感ばかり募らせる。
視線を上げるとすでに目的地に辿り着くマユミ。
その指先が、チャイムの前で止まる。

「どうした……?」

言葉にして初めて気づく。
――不安だと。

俺達は何も知らされない。
知らされていないんだ。
だから不安になるのだと、分かってもらえない。

山岸が今思っていることは――。
シンジのいない、現実。
学校に来られないのは入院しているからではなく、前回の戦いで――。

単なる妄想だと笑う奴もいるかもしれない。
だけど、可能性はゼロじゃないんだ。
もし現実になった時、彼女はきっと耐えられない。

震える指先。
手に取るように分かる不安。
けど、時間は戻らない。

「どうした君達。入らないのか?」

振り返る。
くたびれた格好をした色気ある大人、加持リョウジ。
咥えたタバコがよく似合う。
手には土産のアイス。
この暑さで参ってるだろうからな。

その視線がマユミを捉え、僅か数秒で理解する。
彼女の悩みを。
そして答えを。

「――自分で踏み出さなきゃ、何も始まらないぞ」

はっとするマユミの顔。
二人で交わす視線。
無言の静寂。
けれど互いの目が、百を超える言葉と想いを交わす。

「――そうですね……すっかり忘れていました」

白指はチャイムを鳴らす。
それはまるで、彼女の成長を祝うように。

けれどケンスケは、無力さを告げる音に聞こえてならなかった。










そこは戦場だった。
血の代わりに汗が床を濡らし、冷房も間に合わないほどの熱が陽炎を生む。
身体の弱いレイは床に伏せ、少しでも休息を得るため目を瞑る。
幼い頃から訓練してきたアスカでさえ、顎が上がる始末。
大量の汗を吸い込んだレオタードとTシャツが、身体のラインを浮かび上がらせる。

更に奥。
床を強く踏み抜く音に誘われる。

「二人とも! もっと息を合わせなさい!」

ミサトの怒号。
髪を後ろに纏め、鬼気迫る横顔。
真っ赤に張れた手で手拍子を続け、流れる音楽もかき消すほどに。

ダンッ!

床を踏みつける右の足。
左腕を下ろした反動を利用し、振り上げる右腕。
指先が天を向き、汗を散らす。

踊る二人の顔はあまりに対照的。
シンジは熱で顔を極限まで赤くさせ、トウジは酸欠で青くする。
明確な体力の差。
けれど、刃のように舞うシンジの膝も笑う。
限界など、とうの昔に向かえているのだ。

「――っ!?」

汗の水溜りに足を滑らせ、トウジは受身も取れず床に伏せる。
立つ余力は、もうない。

「何やってんのよ!?」

ミサトの叫び。
飛ぶのは心配の言葉ではなく怒号。
怒りと憎しみは、互いの心を磨り減らす。

立てぬトウジ。
視線すら向けず踊るシンジ。
ここまで余裕がないものか。
そこまで追い詰められているのか。
掛ける言葉も見つからず、ただ二人は無情な現実を目にしていた。

――止まる音楽。
誰もが視線を向けると、そこには加持リョウジ。
一度として見せたことのない怒りを身に纏い、ゆっくり視線を上げる。
突き刺すように、ミサトを。

「――勝手に上がらせてもらうぞ」

「加持……あんた、何のつもりよ!?」

「何のつもりだと? ――なら言わせてもらうぞ。お前のやってるのはただのシゴキだ、こんな訓練に意味はない!」

「いきなり入ってきて言ってくれるじゃないの! じゃあどうすればいいのか教えてもらいたいものね!」

「いいだろう、そこで見てろ」

携帯電話を取り出し、短縮ボタンをプッシュする。
数秒もしない内に繋がる。

「――ああ、俺だ。大至急、救急ポッドを四つ持ってきてくれ。――そうだ、大至急だ。頼んだ」

手早く用件を伝え、携帯をしまう。
そして次に氷とタオルを用意し、疲れ果てたチルドレンに手渡す。

「馬肉が炎症にいいなんて言うが、実はよく分かっていない。顔に当てて熱を冷ますんだ」

「ありがとうございます……」

大往生しているトウジも、何とか受け取り顔を覆う。
いくらか呼吸が整ってきたようだが、それでも動けるほどじゃない。

「加持君……これはどういうつもりかしら……? わたし達には時間がないのよ、分かってる!?」

「休息も訓練の内さ。これ以上は悪戯に身体を虐めるだけだ。そんなのは訓練じゃない、ただの虐待だ。適度に休んだ方が能率が良くなるのは、お前も知ってるだろ?」

「でも、だからって……!」

「身体には憶え込ませた。次は頭で理解させる番だ」

加持はカーペットの上に座り、『そのまま聞いてくれ』と言う。
静寂。
その有無も言わさぬ雰囲気にチルドレン、ミサト、そしてマユミとケンスケも、耳を自然と傾ける。

「葛城が何度も言った通り、この訓練の目的は二人の同調――完璧なユニゾンだ。言葉にするのは簡単だが、その難しさはこれまでやってきて君達の方が良く分かっていると思う」

完全同調。
動きをただ似せるのではなく完全に一致させる、チームプレイの最高峰技術。
視線を合わせずとも同じ動きを可能としなければならない。
筋一つのブレも許されない。
意思伝達でさえただ一つ乱れてしまえば大きく狂う。
つまりそれは模造でなく複写。
一心同体。
二人は完全なる一つでなければならないのだ。

どれだけ難しいことだろう。
生まれも育ちもまるで違う者達が、この短い期間で合わせることなど。
手を取り合った夫婦ですら軋み、磨耗し、離れていくのに。
双子でさえ、互いを完全に理解することはできないはしないのに。

それでも、やらなければならない。
いや――やると決めたのだ。

視線を向ける。
アスカ、レイ、トウジ、そしてシンジ。
これがまだ、14歳にも満たない子供の眼だろうか?
決意に溢れたその眼差しを、何人の大人達ができるだろう?

――彼らはもう、決めたのだ。
だから、俺にできることをするだけさ。

「何が足りないからだと思う?」

誰よりも早く手を上げたのは、アスカ。
博学多識で聡明な彼女らしい。

「意思の疎通」

「そうだ。話し合いと言い換えても構わない。相手を知り、自分を知ってもらうには会話が一番さ。相手がどういう人間か、自分はどんな人間か――科学がいくら進歩しても、話し合い以上に理解する術はないだろうな」

交差する視線。
データ上ならいくらか知っている。
第三者も含め、相手の情報を。
でも、それはきっと本当じゃない。
当たらず遠からずという曖昧な虚像。
影のようなものに過ぎない、ただのイメージ。

身体が動かなくても、言葉を交わせるなら大丈夫。
心を重ねる――それがユニゾンの大切な一歩なのだから。

「――そしてもう一つ。ユニゾン完成のためには、まだ欠けているものがある」

加持の視線が、皆の視線が一人に集中する。
先ほどから、加持が訪れてから表情一つ変えぬ――碇シンジ。

「シンジ君……君の記憶だ」

沈黙。
誰もが、心のどこかで予測していた答え。
それはシンジも例外ではなく。

「………………どうしてですか?」

動揺ではなく、純粋な疑問。
いや――確認に近い。
言葉にできぬ確信を、本物へ変えるために。

「君がチルドレンの、ひいてはネルフの中心だからだ。人造人間エヴァンゲリオン――人類の切り札を操るパイロット。そして君は、名実共にそのエースだ」

「俺は……忘れていたとしても?」

「事実は変えられない」

僅かに握り締める拳。
シンジの動作に誰もが気付き、けれどその真意に気付くのは彼女一人。

「エースは全ての柱だ。そして柱のない組織はいつか必ず潰れる。君にはもう、倒れている暇はない」

だからこそ息を呑む。
彼が未だ、自分を支えてくれることに――。

「記憶を取り戻すんだ。1秒でも早く」










同時刻。
公園。

疎開が進み、人々が立ち去った街。
それでも数少ない店をやっとの思いで探し当て、女性は公園のベンチへと向かう。
彼女の名は洞木コダマ。
未だ女子高生でありながら、看護婦でもある。
本日は女子高生仕様。

そしてベンチにて俯く待ち人――洞木ヒカリ。
潔癖症な妹である。

「――あいよ」

「ありがとう、お姉ちゃん……」

ソフトクリームを手渡し、どっこいしょと腰掛ける。
背もたれに身を預け、ついでに片腕をかけて足を組む動作など、どこかのオッサンでしかない。
普段なら我先に注意するはずのヒカリだが、今日は黙ったまま。
視線はアイス――けれど心ここにあらず。

「――融けるよ」

「え……あ!?」

ボトリ……。
根元から折れたソフトクリームは大地に口付けを交わし、やがて蟻達の食事に変わる。
ため息。
コダマは半分ほど舐めた自分のアイスを、無理矢理妹の口に突っ込む。
こうでもしなけりゃ、味わえないだろ?

「ごほっ……ごほっ……お姉ちゃん!」

「髭生やして怒っても面白いだけだよ?」

「誰のせいだと思ってるの! 本当にもう……」

スカートのポケットからハンカチを取り出し、丁寧に自分の口を拭いていく。
相変わらず几帳面というか、潔癖症というか……。

それも仕方のないことだ。
婦長だった母を亡くしたあの時から、自分達はその穴を埋めるのに必死で。
自分は看護婦として。
ヒカリは母親として、互いに役割を果たすしかなかった。

ヒカリは洞木家の母なのだ。
家事一切を担い、生まれたばかりのノゾミの母親代わりを務めているのだ。
厳しく、優しく。
まだ甘えたい時期だったのにそれを押し殺し、ずっと――。

だから責めることはできない。
これがヒカリなのだから。

「――んで、話したいことって?」

沈黙。
規律を重んじるヒカリにとって、いい加減な自分は快くないはずだ。
姉妹でなければそれこそ、接点を持ちたくないほど。
放課後こうして呼び出すなど、相談を除いて他にない。
『最近、おかしかったしね……』と心の中で呟く。

「人殺しって……悪いことなのかな?」

なるほどね。
律することを正とするヒカリらしい悩みだ。

「――悪いことだね」

「そう……」

どこか安心した顔。
でも、話は終わらない。

「お国から見れば、税金の絞り相手が減る訳だしね。だから法律で定めているんだと思うよ。でも馬鹿正直に言えば、誰も護らない――そのための道徳って授業があるんだろうね。人は殺すな、自殺もするな。死なずに働け、ってね」

「え……?」

絶句。
何を馬鹿なことを――そんな妹の眼差しに怯むことなく。
姉として、コダマは続ける。

「――例えば、盗みを働く人がいたとするよ。あんたはそいつを悪者だと思う?」

「もちろんよ!」

即答。
だからこそ、コダマは続けなければならない。
純粋すぎるヒカリが、優しい理想を抱く妹が、いつか必ずぶち当たる壁なのだから。

「じゃあその人がリストラされたばかりで、入院してなきゃ死んじまう娘さんがいたとしてもかい?」

見殺しにできるのかい?
そんな想いが詰まったコダマに、言葉を失う。

「そ、それは………………そうよ、お金をどこかから――」

「職もない人間に、誰が金を貸すって?」

見上げる。
さざめく木の葉から差し込む陽光。
セミのうるさい声。
こんなに綺麗な世界は、悲しみでいっぱいなんだ。

「――みんな、信じていたんだよ。この世界は優しくて、自分を必ず助けてくれるって。信じて信じて信じ抜いて……でも最後には裏切られた。自分の理想と冷たい現実に」

世界にどれだけいるのだろう。
信じて信じて、信じ続け、理想と現実の狭間に押し潰された人達が。
神に助けを求め続け、そして裏切られた人達が。
奇跡を願い、絶望していった人達が。
どれだけいるのだろう。

「あたしはね、ヒカリ。お母さんが死んだ時にもう諦めたんだよ」

「あ…………」

いい子でいれば、神様が助けてくれるって信じてた。
千羽鶴を折れば助かるって。
四つ葉のクローバーに、願いを捧げたこともあった。
古びた神社にお百度参り。
まじないの類も、本に載っているもの全てを試した。
でも、助からなかった。

あんたはその逆で。
あの頃は誰よりも手のかかる子で、みんなを困らせていた。
だから、こう思ってるのかもしれない。
――自分がいい子じゃなかったから、お母さんは死んだんじゃないか、って。
そんなこと、ないのにね。

「結局最後は、自分で何とかするしかないんだよ。警察だって人間で、法律だってヒトが造ったものだから、守れるものは限られてくる。隙間から零れる砂は、いつも必ずあるんだよ」

それが金か地位か命なのか、様々だけど。
泣いている人はたくさん。
泣くことさえできない人は、もっと。
悲しみが溢れていく。

「いきなり襲われてから警察が来るまでおよそ10分――ヒカリならどうする?」

だから教えなくちゃいけない。
自分が進む道は、茨で塞がれていることを。










同じ頃。
洞木ノゾミは、商店街から帰宅途中であった。

「買い忘れなし……」

ツーサイドアップされた、肩ほどの黒髪。
常夏に相応しい、いくつか花の装飾がなされた白いキャミソール。
色気よりも健康的な彼女らしい淡い黄色のミニスカート。
背には赤いランドセル。
両手に下げる中身が溢れる買い物袋。
彼女が持つには、やや重い。
それでもか細い身体でバランスを取りながら、歩く姿は微笑ましい。

洞木ノゾミ、第3新東京市立第壱小学校3年生。
現在入院中の鈴原コハルとは、親友と呼べる間柄。
その親友の諸事情により、これまで登場をだいぶ控えていたのだが。

「まったく……人に買い物押し付けて、ヒカリはいったい何を考えているのでしょうね? 確かに働かざる者食うべからずとは言いますが、マックスの散歩は朝晩欠かさず果たしています。自分の責務は全うしていることこの上ないはずです。それなのにこのような重労働を押し付け、しかもトイレットペーバーまで小学生に買わせるとは、児童虐待以外の何ものでもないと言っても過言ではないでしょう。これで財布を渡されていなければ、児相に電話をかけることも吝かではありません」

超独り言。
次姉の呪詛を連ねながら歩く様には、大人達も道を開ける。
これまで出番がなかった分だけ、喋らせていただきます。

だからこそ気付かなかった。
仲間との話に夢中でふらり、こちらの道を塞ぐ若者を。

「――あいたっ!」

吹き飛ばされ、尻をつくノゾミ。
買い物袋が地面に落ちて、中身が滑るように飛び出していく。

「ん? 何だ、コイツ?」

見上げる。
学ラン姿の青年4人。
一人は金髪のロンゲ、一人は黒い短髪、一人は天然パーマでヘッドホンを耳にし、最後の一人は眼鏡をかけた秀才風。
ノゾミがぶつかったのは二人目の、スポーツ体型の黒い短髪の青年。

「あー、いてぇな……どこ見て歩いてんだよ?」

「…………ごめんなさい」

内心『前を見てなければ危なくて歩けませんよ、頭の軽いあなた方は知りませんが』とか思いつつも、頭を下げる。
セカンドインパクト以後、こんな輩はどこにでもいる。
日常茶飯事となっている喧嘩や小競り合い程度では、警察は動きもしない。
だからやり過ごす術など子供でも知っている。
それだけのことだ。

「あ〜、超いてぇ。こりゃ骨が折れてる」

「ん、どれどれ? ――おいおい〜、こいつは酷いな。ポッキリだ」

ゲラゲラと笑いながらの三文芝居。
これで役者志望なら、何度か死んだみた方がいいかもしれない。
『折れているのはあなたなどの腕ではなく、夕食に使う大根の方です』という言葉を飲み込み、ノゾミは震える唇をかみ締める。

弱肉強食。
食われたくなければ、穏便に済ませなければならない。
自分を守るために。

「お金なら――」

少しはある。
金だけで解決するほど甘い輩ではないことを経験から知らず。
それは、神経を逆撫でにする言葉だった。

けれど遮られる。
四散した買い物を手提げ袋に一つ一つ丁寧にしまう、眼鏡をかけた秀才風の青年の姿によって。
呆然とただ、誰もが彼を見つめる。

「――怪我はない?」

眉に届く程度の短い前髪。
他の仲間とは違い、爽やかさと優しさが滲み出ている。

「おい、何やってんだよ?」

「わざわざ弁償したくないから、その手伝いだよ」

「内申書に響くからか? 優等生は羨ましいぜ」

そんなんじゃないよ、と笑顔で答えての肯定。
けれど、自分は優等生だが優秀ではないことを知っている口振り。
明らかに異端な彼が、他の仲間からも認められている事柄であった。

「どうしたの? 立てる?」

伸ばされる右手。
左手には、すでにしまい終えた買い物袋。
優しい笑顔。

だけど――。

「あ………………」

ノゾミは感じていた。
言葉にできぬほど、限りなくゼロに近い僅か――だけどそれは無視を許さず、拭い切れぬほど確かな感覚。

(――何かが……!)

見える現実と、見えない真実の歪み。
間違い探しにも似た違和感。

(何かが違います……)

例えるなら、擬装。
他人によって使い分ける、いくつもの仮面。
それは誰もが持っている羊の皮。

(この人は……)

それは喩えるなら、擬態。
外敵から身を守り、時に獲物を狙う獣のように。
己を、本心を隠す魔性の鏡。

(この人は…………)

そして外見。
惑わし誤魔化す最高の城壁。
容姿は、服は、雰囲気は、相手の心を誤解させる。

(この人は、本当に……)

ならば隠しているものは何か?
欺いている本心は何だ?

子供だったから、なのかもしれない。
それとも大人びた姉二人に囲まれ、生きてきたからなのかも。
彼の仲間達は気づかない。
遠巻きに見つめる、老若男女の人々も。

(この人は、本当に――)

――ノゾミだけが直感的に感じていた。
人ならざる気配。
常人であっては決して触れぬ世界の領域。

(――人間ですか!?)

あまりに深い、深淵の常闇。
獣より遥かなる無限の絶望。

伸ばされる右手が、骨だけの死神に視える。

「――嫌っ!」

心地良いほどの乾いた音。
ノゾミの左手が、伸ばされた青年の右手を叩く。
静寂。

「てめぇ……!」

それは明らかな反抗。
己の頬に泥を塗られたかの如く、3人の仲間が一瞬で血を昇らせる。
だが、次の瞬間起こるであろう暴挙を遮ったのは、他ならぬ叩かれた青年だった。

「……大丈夫そうだね」

買い物袋をそっと置き、眼鏡の青年は立ち上がる。
呆然とする叩いた本人を見つめ、そして口元を僅かに緩める。

「やっぱり子供は鋭いね」

ノゾミだけに聞こえた言葉。
唇をまるで動かさず、ただ一人にのみ言葉を伝える技術。
どれほど難しい行為なのか、少女には分からない。
けれどその視線は、ノゾミの心臓を恐怖で鷲掴みにするのに十分だった。

「――そろそろ塾の時間だ。ここら辺で御暇するよ」

「おおっ、じゃあな」

軽く手を上げ、友と別れを告げる。
どこにでも溢れている学生の姿。
仲間との違いが、街行く人々にさえ好感を与える。

けれどノゾミは歯を振るわせる。
両腕で自分を抱き締め、寒さに身体を震わせる。
真夏で冷や汗を流す。
涙を零さないのが、不思議なほどに。

(あの人はいったい、何なんですか……!?)

羊の皮を被った狼などではない。
動物ではない、バケモノだ。
空想上の産物でしか、彼の正体を喩えることはできない。
いや、それでさえ――。

この恐怖は、天上の存在に近い。
身も心も命さえ――全てがその手に握られている感触。
産むも奪うも気分次第。
何をしても抗えない。
それほどの恐怖を、あの人は――。

自分以外の誰もが気付いていない――その事実が、ノゾミを余計に萎縮させる。
だからこそ、気付けなかった。
彼の仲間達が、自分の両腕を掴んでいたことに。










「はぁ……はぁ……!」

シンジは走っていた。
当てもなく、ただがむしゃらに。

『記憶を取り戻すんだ。1秒でも早く』

――分かってる。
逃げてるだけなんだ、俺は。

『今の君には力がない。そして協調性もなく、仲間の足を引っ張るただのお荷物だ』

――分かってるよ。
でも、仕方ないじゃないか!

『作戦開始まで残り44時間と21分。それまでに記憶が戻らなければ、この作戦から外れてもらう。碇司令も同意している』

――分か、っていたさ……。
俺の居場所は、ここにはないんだって。

『――どうした? 周りに当り散らしたところで何が変わる? ――記憶の戻らない君は必要ない。邪魔だと言っているんだ』

全部、記憶を無くす前の俺のものだ。
俺は何もしてない。
未来に置き去りにされただけだ。

無くして当たり前だ。
要らなくなって当然だ。
貰うだけで与えもしない――そんな一方的なものが、続くはずない。

でも、何ができるって言うんだ?
俺は何も憶えてない、みんなが知っているだけだ。
何を返せって言うんだよ?

「俺は…………」

――じゃあ、帰るのか?
このまま向日葵園に。
2年の時が流れたあの場所に、逃げるのか?

「どうしたらいい…………?」

――ダメだ。
きっとあそこにも、俺の居場所はない。
みんなを平気で傷つけるくらいなら、このまま戻らない方がいい。

それじゃあ、俺の居場所は、どこ?

「――放してください!」

髪を捕まれ、少女が悲鳴を上げる。
歳は小学校の低学年くらい。
傍の買い物袋が、転がる。

「誰が放すかよ……オラっ!」

その少女――洞木ノゾミを二回りは違う、高校生らしい3人組が囲む。
腕を引きずり、髪を掴み、容赦なく少女を地面に打ちつける。
周囲の人間は遠巻きに眺めるか、目を逸らし立ち去る。
助けるという選択肢はない。

当たり前の光景。
この世界には、ありふれた情景。
運の悪い弱者が強者に食われるだけの話。

だけど――。
シンジは、目を逸らすことができなかった。

(どうして――?)

涙を流さず、必死に耐える少女。
泣いたところで好転しないことを知っているから。
あんなに小さい子でさえ、我慢しなくちゃならない世界。

(そうか、俺は――)

許せない。
許しちゃいけない。
抗いたい、抗わなくちゃならないんだ。
そのための力がある。
エヴァでは戦えなくても、目の前の弱者を助ける力はあるんだ。
それを向日葵園のみんなのために使っていただけ。

(ただ、助けたいだけなんだ)

初めからそうだったんだ。
誰かが傷つくところを見たくない――そのために。
どれだけ傷つこうとも構わない。
俺はずっと戦ってきたんだ――!

「――その子を放せ」

人垣を割り、一歩前へ。
青年達は止まる。
全ての視線が、シンジに集まる。

「何だ、てめぇは……?」

「――悪魔の子」

もう、迷わない。
大切な人を護れないこの手で、頼りないこの力で、誰かを助けたいと思う。
傲慢で、どこまでも自分勝手で、大馬鹿野郎で。
でもこの気持ちは、誤魔化せない。
忘れたりしない。

「命乞いは早くしろよ。その内、喋れなくなる」

誰かを護るためならば、喜んで悪魔に喰われてやる。
それが、13歳の覚悟。










同時刻。
夜祁メグミは、街を歩いていた。

まだ二ヶ月。
この第3新東京市に訪れてから、たったの二ヶ月。
それでも、たくさんの思い出が詰まっている。

「久しく、忘れていたな……」

長く留まる喜び。
同じ道を歩き、少しずつ変わる毎日を笑い、流れていく時間を楽しむ。
何年も、何年も忘れていた。
こんなに長く同じ場所に留まったのは、故郷以来か。

伊南武音流は殺人剣。
依頼を完遂することを至上とする闇の刃。
最強の暗殺術。

血に汚れたこの手に、手を差し伸べてくれた者達がいる。
家族と言ってくれた人達がいる。
どれだけ戸惑い、そして喜んだことだろう。
今でもそれは変わらない。

でも別れはやってくる。
終わりは必ずやってくる。
シンジは記憶を失い。
レイは笑わなくなり。
ミサトとリツコは、仕事に逃げた。
偽りの家族は、やはり偽りでしかないのか。

『君が名前を呼ばせないことと、何の違いがある?』

刃物の切っ先のように、するりと刺し込まれる言葉。
――何の違いもない。
心の壁だ。
今の生活に感じる心地よさに一方で、肥大化していく失う恐怖への予防線だ。

本当に護りたいのは、大切な何かじゃなくて。
大切なものを失って傷つく、自分なんだと。

「……痛いところを衝く」

――わたしは碇と変わらない。
失いたくないから遠ざける、ただの臆病者だ。
独りでは生きていけないのに。
寂しさで泣き出しそうなだけなのに。
何故、気付かないのだろう?

コール音。

「――もしもし?」

『こちら保安局A班! 複数の団体と交戦中、至急応援を願う!』

「A班? ――チルドレンは無事か!?」

『ファースト、セカンド、フォースは現在マンションにて訓練中! 問題ない!』

「サードはどうした!?」

『いえ…………サードなら、問題は――』

「自宅にいないのだろ!? サードはどこだ!」

『悪魔に助けなど不要かと……』

「奴は人間だ! 悪魔の振りをした、ただの大馬鹿者だ! 職務怠慢にまだ気付かないのか!」

『ですが――』

「――っ! その足で今すぐ芦ノ湖まで往復してこい! 少しは奴の状態が分かるだろうからな!」

電源を切ると同時に走り出す。
だから気付かなかったのだろう。
この時初めて、あの馬鹿の身を本気で案じている自分がいることに。










一蹴。
顔面狙いの拳をかわし、遠心力を乗せた蹴りで鳩尾を捉える。

「ぐふっ……!」

くの字に折れ、一時的な呼吸困難に落とす。
低くなったこめかみを鎌のような上段蹴りで薙ぎ払う。
だが、僅かに踏み止まるスポーツ体型の青年。
意識を繋ぎ止めたのは、鍛え続けた身体かプライドか。

「ちっ――!」

蹴りの勢いで更に回転し、続く三撃目でそれさえ断ち切る。
掌底。
顎や頭部でなく、首の根元付近を打ち抜き、逃れようのないよう最大限の衝撃を与える。
一回りは違う体躯の敵を倒し、シンジは残る二人の攻撃に備える。

「何もんだ、こいつ……!?」

動揺を隠せない天然パーマの男。
金髪の男は黙っているが、仲間同様すぐ襲ってくる気配はない。
シンジはすぐに距離を詰めず、内心ほっとする。

(くそっ……身体が重い……!)

度重なる訓練に痙攣する身体。
頼みの体力も底をつき、いつ倒れてもおかしくない状態だ。
戦えるはずがない――それでも戦いたいから。
気力だけが、その小さな身体を支える。

(こんなところで、ツケが…………っけんじゃねぇ!)

けどいつまでも誤魔化しきれるものじゃない。
限界を知らせる痛みの鼓動。
頭を焼き焦がす灼熱の血液。
手放せばどこまでも堕ちていく意識。
崖っぷちとはよく言ったものだ。

(あと、ふたり……!)

朦朧とする意識を必死に掴み、放さず。
表情には出さず、悟られないよう徐々に距離を詰めていく。

「――んで、悪魔が何の用だ?」

にやり。
それまで冷静に観察していた金髪の男が、不敵に笑う。
シンジは本能的に察する。
自分とは対極の人間だ、と。

「ゴミ掃除だ」

「正義の味方気取りか? 最近の悪魔ってのは、随分優しいんだな……俺らと違って」

流れるような動作でナイフを取り出し。
ノゾミの首筋にすっと当てる。
あまりに自然な動きで、誰もが対応できず。

「――赤い血が流れてるかどうか、ちょっと試してみないか?」

「っ……!」

シンジは内心、舌を打つ。
――やっぱりそうだ。
こいつは自分とは対極――人の死に、何も感じない人間だと。

必要なら無表情で誰でも殺せる、機械に最も近い人種。
先天的か後天的か、心が歪な存在。
肉体の鍛錬を積めば優秀な兵器になりうる、感情が欠落した殺人鬼予備軍。
一般社会でも時折現れる、こんな時代の犠牲者。
敵味方問わず、永久的に関わりたくない。

「何してんだよ? そこのバットで早く殴れよ。やらなきゃこっちがやられるんだぞ?」

「あ、ああ……」

戸惑う仲間。
無理はない、こんな状況でなければ表れない性質だ。
けれど眼前の敵と秤にかければ、そちらに傾く。
仲間の異状に気付きながら無視してしまう。

僅かに視線を送る。
背後から左肩に手を置かれ、その細い首にナイフを突きつけられ小刻みに震えるノゾミ。
首を腕で廻されていれば噛んで怯ますこともできるが。
いや、小学生の女の子に望むだけ酷な話。
妙な動き一つで本当に刺しかねない相手なら、その方がいい。

(問題はこっちか――)

天然パーマの男は金属バットを天へ掲げ。
容赦なく、振り落とした。










二人の沈黙を破ったのは、悲鳴だった。
公園を囲む木の葉を突き破り、見知る少年の背中が飛び込んでくる。

「少年!?」

「碇君……!?」

追うように現れる天然パーマの男。
振るわれるバットをシンジは紙一重でかわしていく。

「こいつ……!」

「――っ!」

俊敏。
今にも倒れそうな身体とは思えない体捌きで翻弄する。
男も次第に熱くなり、加減なく振り回す。
それでもかわす。
軽やかに。

傍観者の二人は息を呑む。
けれど、本当に驚くのはこれからだった。

「避けていいって言ったか、正義の味方?」

続いて現れた金髪の男。
そして、目の前に連れられている一人の少女。
洞木ノゾミ――その首に当てられたナイフ。

血の気が引くとはこのことか。
何故、妹が?
疑問に頭を支配され、言葉を忘れる。

「――がぁ!?」

渾身の一撃。
曲げた左腕の手首下、肩下、そして左耳に添えられた右手の三点で受け止め、衝撃を殺す。
満身創痍でも咄嗟の防御。
戦って戦って戦い続けたシンジだからこそできた行動。
けれど、そう何度も受け止められるものじゃない。
それに――。

「防御もするな。お前は立っているだけでいい。サンドバックってのは、殴られるためにあるんだろ?」

「くっ……!」

次々と打ち込まれていく心の楔。
言葉の鎖が自由を奪う。
ノゾミの皮膚を押す切っ先に、抵抗する意思さえなくす。

護るということは、命を背負うことだ。
自分の命と、護りたい人の命。
護りたいものが多ければ多いほど、重みで動きを鈍くなる。

奴はそれが分かっている。
だから利用する。
効果的に。

「逃げてんじゃねぇよ!」

狂気に取り憑かれ、男はバットを振り上げる。
恐怖という悪魔を振り払う信者のように。

「少年! 今助けに――!?」

飛び出すコダマ。
その腕を掴んだのは、妹。

「ヒカリ……!?」

グシャッ。
視線を戻せば、膝から崩れるシンジの姿。
続けざまに振り上げられるバット。
そして――肉が潰れる音。

繰り返される惨劇。
駆け出そうにも、万力の握力がそれを拒む。
震え、首振るヒカリに、コダマは苛立ちを隠せない。

「少年を見殺せばノゾミが助かるって、本気で思ってるのかい……!?」

「だって、狙われてるのは碇君――」

「ノゾミを見逃す理由がどこにあるって言うんだ!? 少年がやられちまったら、次はノゾミなんだよ!?」

「でもこのままじゃお姉ちゃんがやられちゃうじゃない! ――何でよ、何でみんな碇君を庇うの!? 彼は…………彼は人殺しなのよ!?」

「ヒカリ……」

ヒカリは叫ぶ。
これまでと同じく繰り返す。
己の正しさを。
潔白を。

人殺しが悪い。
殺されても文句は言えない。
いや、死んで当然。
悪者はみんな、いなくなればいい。

――それじゃあ、世界から誰もいなくなっちゃうよ?

だから教えなくちゃいけない。
あんたにはあんたの世界があるように、みんなそれぞれ世界があって。
一つとして、同じものはないってことを。

「何で? ――そんなの、決まってるじゃないか」

そう、決まってる。
一緒にいたいって思う。
誰かと傍にいたい理由なんて、あたし達には一つしかない。

「好きなんだよ、少年が」

「え……?」

――他に理由がいるかい?

「ああ、要らないな」

二人は振り返る。
そこには、見知った顔があった。










「はぁ……はぁ……はぁ……」

青年は、狂気に駆られていた。
いや、恐怖と言ってもいい。
死にたくないという想いが彼にバットを振るわせていた。

何度も何度も。
シンジが倒れてからは、頭部を重点的に。
殺してしまう恐怖はなかった。
でなければ、動かなくなった人間をこれほど殴れない。

「はぁ……はぁ……!」

動かなくなった猫を噛み続ける鼠だ。
怖くて怖くて、仕方がない。
でなければ、こんな表情では殴れない。

殴るたびに襲う反動。
痺れ、感覚を失い、それでも止めることなく振り落とす。
狙いが外れ、地面を叩こうとも。
握り締める手が擦り切れ、グリップを赤く染めようとも。

それほど怖かったのだ。
死ぬことが。

「あーあ、やっと死んだかな?」

聞こえない。
仲間の声さえ聞こえない。

――いつ終わる?
いつまで殴れば、こいつは死んでくれる?
俺はあと何回殴ればいいんだ?

だから気付かなかった。
バットが、両断されるまで――。

「え…………?」

振り上げたバットのヘッドが、前触れもなく斬首される。
視界には、突如現れた黒髪の少女。
夜祁メグミ。
その手には振り上げた日本刀。

手首を返し、刃を下に向ける。
腕だけでなく全身を使い振り下ろされる妖刀。
軌道を変え、開いた左脇から肋骨に沿い、肺を通る。
頑強な胸骨を容易く断ち、心臓さえ容易く。
そのまま右脇を突き抜けると同時に刃を返し、そのまま鞘に納まる早業。
横一文字。

「失せろ、下種が」

噴水のように胸が弾け、血が飛び舞う。
足元のシンジを染める血雨。
恐怖に駆られた男は白目を剥け、仰向けに崩れ去る。

「死に、たくない……! 死にたく…………!」

「案ずるな。貴様如き、殺す価値もない」

痙攣し、手を伸ばすことにも目を向けず、メグミは前に出る。
元凶たる金髪の男に。

「――出来過ぎた偶然だな? 雇い主は誰だ?」

「これが目に入らぬか?」

ふざけた口調で男は笑う。
ノゾミの首筋で輝くナイフ。
構わずメグミは進む。

「頭が悪いな。そんな安い盾で防げると思うのか?」

「紙切れよりはマシだろ?」

飛び交う冗談じみたやり取り。
だがその眼は、互いに本気であることを物語る。
ノゾミが震えるほどに。

「――確かに、本気のようだ。かといって、背中を見せたら殺されそうだし、どうしたものか……」

「ほう? 取引をするつもりもないか」

「おいおい、その気もない奴にしてどうなる?」

「時間は稼げるが?」

「お互いにな。――それ以上近づけば容赦なく刺すぞ」

内心舌を打ち、男の背後から迫っていたコダマは足を止める。
所詮は素人。
気配を消すことなどできはしない。
そして、感知することも。

「――やはり素人ではないな」

振り返りもせず、背後の意識を捉えてみせた。
視覚に頼らず、聴覚に頼らず、僅かな殺意を肌で感じ取るほどの触覚。
それすなわち普通に非ず。

だが腑に落ちない点もある。
持ち合わせる装備だけでなく、挙動全てが一般人と大差ない。
けれど釣り合わぬほどの危険察知能力。
危機的状況にも見られぬ動揺。
弱いと豪語しているが、鵜呑みにすべきではないのだが――。
判断に迷う。

「――正義の味方ではない。でもできれば殺したくはない甘ちゃん。それにしてはずいぶん不釣合いな実力だな」

――聞く耳持つな。
言動全てがフェイクだと思え。
分からないのなら考えるな。
己の実力のみを信じろ。

「どうした? 早くしないと刺さっちゃうかもよ」

――不味い。
ノゾミの膝が笑い始めている。
このまま崩れたら、自分からナイフに刺さりにいくことになる。
無論奴は、引いてやるつもりもない。
大人でさえこの状況は長く持たない――まして小学生だ。
死の恐怖を理解し始めている分だけ、幼児より短時間しか持たない。

離れすぎれば万が一の際、間に合わなくなる。
けどこれ以上近づけば刺されかねない。
距離は10m――助けるにはまだ足りない。
完全な膠着状態。
けれど刻一刻と迫る制限時間。
どうする?

「――何をしてるの!? 早くノゾミから離れてよ!」

ヒカリの叫び。
それは金髪の男にではなく、ノゾミを助けようとする二人に向けて。
これ以上刺激したら、ノゾミが――。

「馬鹿が――」

それは、明らかな失態。
メグミは微かな可能性に希望を託し、男の隙を窺う。

「ふ〜ん……なるほどね」

だが乱入者にも構わずメグミを見据え、男は不敵に笑う。
そしてナイフを顎から――右眼へ。

「ひぃ……!」

「ノゾミ!!!」

「よーく見てごらん。この鋭いナイフが今から君の目玉をプチッと潰すからね……」

「やめて、やめてよ! 何でもするからっ!!!」

安すぎる挑発。
子供のように相手の反応を面白がり。
いずれこちらへの要求に変わる。
テロと同じだ。
一度屈すれば、次も飲まざる終えなくなる悪循環。
だからこそ便乗してはならないのに――。

「それじゃあ、お前がこいつを殺せ」

「え……?」

「かわいいかわいいノゾミちゃんを助けたかったら、そこの刀女を殺せって言ってんだよ」

絶句。
争いを好まず、大切な人達を護って生きてきた彼女にとってそれは、選べない選択。
"Yes"と答えれば自分は人殺し。
"No"と答えれば、妹の右目は光を映さなくなる。
選べるはずがない。

――どうしてこんなことに?
わたしは何も悪いことしてない、誰よりもルールを守ってきた。
法律を犯すようなことは何もしてない。
ずっとずっといい子にしてきた。
色んなこと我慢して、頑張ってきたのに。
それなのに、どうして?

「これがお前の結果だ、洞木ヒカリ」

一歩前に出る。
それは、膠着状態を破ること。

「喜べ。貴様の妹は、片目だけで助かる」

「――っ! 待って!」

俊足のメグミ。
少し遅れてヒカリ。
コダマも背後から飛び掛る。

だが――1cmと10mでは勝負にならない。
ノゾミの右目に輝くナイフが――。



突。





天上に舞う飛沫。
青空を回転する影。
刃物を握り締めた肘から先。
男の右腕。

真下には空を貫く黒い鞭。
土に潜り、大地を削り、獲物に食らう黒蛇。
シンジの鞭が窮地を救う。

「――っ!?」

気付いた時にはすでに遅し。
男の右側に現れるメグミの姿。
右腕はなく、左腕はノゾミの肩に置いているだけで盾にはできない。
高速の抜刀――狙いはその首。

高く響く金属音。
防御も回避も不可能な一撃を放った――はずだった。
だがそれは、男の左掌と首に半ば突き刺さり、止まっていた。
確かに二点同時防御ならば衝撃は半減される。
それでも両断するほどの一撃だった。

出血のない傷口。
そして金属音。
メグミは金髪の男をそのまま吹き飛ばし、ノゾミを背に隠して構える。

「改造人間か……!」

身体の一部が別物質に改造された人間。
機械人間とは違い自己再生能力――無論、強化人間と違って人並みだが――を持つため、社会に溶け込める。
強化人間や機械人間との最大の違いは、その思考。
薬品で暴走する訳でも、機械のため単調作業でもない――高い作戦を可能とする。
つまり、最も疑われない諜報活動向けの兵士という訳だ。

傷口を見る限り、男の骨格は特殊合金。
出血がないところを見れば、心臓ではなく別の動力を使っている。
倒すならシンジのように関節部か、脳は人間であるため首から上を破壊するしかない。

金髪の男は落ちてくる自分の右腕を掴み、その傷口をじっと眺める。
僅かばかり見られる動揺。
もしや――。

「――人間じゃなかったのか、俺は……」

好機。
再度飛び掛らんとするメグミに、男は人差し指を立てる。
そしてゆっくりと動かし、その先を仲間である天然パーマの男へと。

「お別れだ」

――奴は改造されたことに気付かずにいた。
ならば、その仲間が改造されていないと何故言える?

「――っ!」

反転。
こちらに半死半生で手を伸ばす天然パーマの男。
その後ろには、未だ動けぬシンジ。

「死に、たく……ない……死にたく、な……い……!」

「ちぃ!」

最速の刃。
風が牙を剥き、遠く離れた男を喰らい、吹き飛ばす。
まるで車に撥ね飛ばされたように。
瞬間――発光。




爆。





空気の破裂。
凄まじい熱と衝撃にヒカリは吹き飛び、コダマは身を低くして耐える。
ノゾミはメグミの手で一番に地面へ伏せられ、爆風を逃れる。

「…………行ったか」

姿のない金髪の男。
気配を探るが、すでにこの場を離れたようだ。
この機に乗じてこちらに一矢報いることもできたが、奴はしなかった。
臆病風に吹かれたのではない。
情報を持ち帰り、明日の勝利のために撤退したのだ。
退き際を熟知している奴ほど、厄介なことこの上ない。

それに、退いてくれて助かったのはこちらも同じだ。
もしあのまま戦っていれば――。

「ノゾミ……ノゾミ…………!」

駆け寄るヒカリとコダマ。
ノゾミは膝から崩れ、虚ろな瞳で二人を見つめる。
――肉体的、精神的に限界だった。
改造人間と庇いながら戦うには大きすぎる荷物だ。
手段を選ばない奴が相手では、無傷では済まなかったであろう。

メグミは涙姫を納刀し、駆け足でうつ伏せのシンジに駆け寄る。
――傷が浅い。
恐らく、漆黒の鞭を一瞬で頭に巻きつけ、防御したのだろう。
錯乱状態の仲間にも、遠く離れた奴にも見ることのできないほど髪に近い色が幸いした。
でなければ、脳が地面に飛び散っているはずだ。

音で察したのか、ようやく顔を上げる。
弱々しい。
いくら衝撃を吸収していたからといっても、ダメージがない訳じゃない。
それを数え切れぬほど受けたのだ。
反撃しただけでも、奇跡に近い。

「やつ、は……?」

「逃げた。――今は貴様の治療が最優先だ」

携帯を取り出し、ネルフにかける手をシンジに掴まれる。
ケガ人とは思えないほどの力。
目が、力強く。

「な、んで……!? やつは……きっとまた…………!」

「聴覚に異常をきたしたか? それとも冷静さを事欠いたか? 貴様の治療が先だと言ったはずだ」

「そんなことより、やつを――」

変わらない。
自分より他人を優先する。
大切な人より、自分が傷ついた方が楽だから。

何も変わってない優しさと愚かしさ。
だから、その手を払う。

「それで貴様が死んで、誰も悲しまないと? 貴様が犠牲になれば全てが丸く収まると? ――本気でそう思っているなら、わたしはお前を本気で殴る」

メグミはこれまで一度も手放さなかった涙姫を放し。
碇シンジの両頬を掴み、真っ直ぐ見つめる。
真剣に、少し悲しげに。

「わたし達は家族だ」

寂しさを埋め合わせるための夢と同じ。
偽りだらけの家族。

「血の繋がりもない、戸籍上でさえ他人の、たった二月ほど前にできた家族だ」

薄い。
儚い。
他の絆に比べてしまえば、あまりに細い糸。

「全部、お前が始めたことだ」

けど、大切じゃない訳じゃない。
簡単に捨てられるものでもない。
いつの間にか支えになるほど、心を占めている。

「今の貴様は憶えていない。思い出すこともできない」

どれだけ嬉しかったか、知っているか?
無くしてどれほど傷ついたか、気付いているのか?
レイが、赤木リツコが、葛城ミサトが、そしてわたしが――。

「けれどそれで言葉が消える訳ではない。誓いがなくなる訳ではない」

わたしは憶えている。
忘れはしない。

「お前は死なないと言った。誰も死なせないと。それを破るつもりなのか?」

たぶん一生心に残り続けるだろう。
それほど嬉しかったから。

「――絶対に許さんぞ。冥府まで追いかけ、貴様に永遠と文句を言ってやる」

「どうしておれ、なんかを……?」

「馬鹿だな、貴様は」

あまりに単純で。
嘘みたいに、いつの間にかそこにあって。
笑ってしまうくらい、世界にありふれた理由。

「好きだからに決まっているだろ?」










「…………え?」

「あっ……!」

かぁ、と赤くなるメグミの顔。
自分の失言に気づき、羞恥に流されるまま拳を振り落とす。

「忘れろ! 今すぐ忘れろ!」

「い、痛い! ちょっ、かなり痛いって!」

ぽかぽか。
型もへったくれもなく体重さえ乗ってない、まるで子供の駄々のような拳。
それでも打ち身だらけのシンジには十分すぎる。
傷口に唐辛子を塗りこまれるようなものだ。
事実半泣きである。

「悪かった! 俺が悪かった! だから叩くな!」

「黙れ! 黙れ! お前なんか大っ嫌いだ!」

無茶苦茶だ。
頭をトンカチで殴られ続けるような激痛に、シンジは耐える。
……あ、意識が飛びそう。

「――はいはい、その辺にしときなって」

苦笑しながらメグミの両腕とシンジの意識を繋ぎとめたのは、コダマだった。
もっと早く止めてください。

「脳内出血してるかもしれないのに頭殴ってどうすんのさ? まったく……そりゃあぽろっと告白しちゃって恥ずかしいのは分かるけどさ……」

「こここ、告白な訳ないだろ! 誰がこんな奴と――!」

「あたしは少年のこと、好きだけどね」

爆弾発言。
あぅあぅしか言葉も出ないメグミちゃん。
まあ、お顔が真っ赤よ?
――ちなみにグロッキーなシンジ君は聞こえていたか微妙ですが。

「な、なな、な…………!」

「もちろん、人としてね。――あれ〜? メグミちゃんはもしかして……」

にやり。
してやったりなその笑顔は、今にも計画通りとか言いそう。
黒いノートが良く似合う。
は、謀った……。

「〜〜〜っ! そんな訳あるか! ひ、人としてに決まっているだろうが! 誰がこんな奴を、こんな奴を!」

げしげしと追い討ち。
何故かシンジに。
あれ〜、何か綺麗なお花畑があるよ〜…………。

「分かった分かった。手っ取り早くネルフを呼んでくれないかい? その方が少年には都合がいいだろ?」

「くっ……それもそうだな。待っていろ……!」

終わったらこの百倍は叩き込みそうな勢いで携帯を操作するメグミ。
やれやれといった感じに肩を下ろすコダマは、ふと後ろを振り返る。
未だ震えているノゾミと、こちらを睨みつけるヒカリ。
メグミも気づいているのか、横目に捉えている。
――こりゃ難題だね。

「言いたいことがあるなら、聞いてあげるよ」

「どうして碇君なの……ノゾミがこんなに震えてるのに、お姉ちゃんはどうして碇君の方に行くのよ!?」

「分かんないのかい? 助けるのが遅れたせいで、こんだけボロボロになったって言うのに?」

ヒカリは目を逸らし、小さく呟く。
それは聞き逃せないほど、頭にくる言葉。

「大丈夫よ……だって、人殺しだもの…………」

「――っ! ヒカリぃ!」

地を蹴る。
恥も家族への優しさも、手加減という言葉すらそこにはない。
言ってはならない言葉を口にした者への激昂。
鬼の形相でコダマは胸倉を掴み、ヒカリ目掛け右手を振り上げる。

パンッ。
乾いた音が耳に響く。
けどそれはあまりに軽く、力ない。

視線を戻すヒカリ。
頭上には、手を振り上げたままの姉。
そして下には、呼吸を乱し、それでもなお自分を叩いた妹。
真っ直ぐな瞳が、自分を射抜く。

「ノゾミ……?」

痛い。
頬ではなく、心が。
呆然と返す自分に、ノゾミは失笑する。

「ヒカリは馬鹿です。大馬鹿すぎて可哀想です」

人差し指と親指以外折り曲げ、右手で形作った銃をヒカリの額に当てる。

バンッと言いながら手首を上げる。

「生きていれば死はやってきます。それだけがこの世界で唯一の平等なのです。人殺しでも大統領でも教祖でも聖人君子でも、いつかは死ぬんです。そんなことも分からないんですか?」

「そ、れは……」

「確かに人殺しは悪です。最悪です」

ノゾミは力の入らない足を引きずり、細い腕だけで進む。
仰向けに倒れたままのシンジへと。

「どれだけ償い罪が許されたところで、この手を穢す血を払うことは誰にもできるはずがありません。事実が覆ることはありませんから、死ぬまで悔やみ続けることになるでしょう」

でも。
ノゾミはシンジの手を握り締め、自分の頬に当てる。

「――この手がわたしの命を救ってくださった事実もまた、覆ることはないでしょう」

「ノゾミ……!?」

どうして?
どうして人殺しの手を、そんな風に触れるの?
これほどまでに汚れた手を、そんなにも愛おしそうに。

「例え何百、何千、何万――世界中の命を奪ったとしても。わたしを殺すことになったとしても、この手は今日わたしを助けてくださいました。その事実は未来永劫消えることはありません」

ヒカリは思う。
――分からないと。

「感謝します。ありがとうございます」

そしてシンジは思う。
――僕はただ、その言葉が聴きたかったのだと。

知らない内に濡れるシンジの頬を、ノゾミは何も言わず撫でた。










数分後。
弾痕だらけの黒い護送車が、公園の前に到着する。
後部座席が開き、無精髭の男が降りてくる。

「悪いな。時間がかかっちまった」

「加持さん……」

弱々しい微笑み。
心許した笑みに周囲の女性陣はむっとする。

(加持リョウジ……確か、あの二人とは旧知の仲だったな)

メグミは無言で観察する。
ネルフでもトップクラスの戦闘力を誇る、ミサトとリツコの友人を。
すぐに気づく。
無数の血の匂いと硝煙の香り。
けれど砂埃一つない服装と、隙のない雰囲気を。

(あの二人よりも遥かに上か……侮れないな)

「――おいおい、そう睨むなよ。ほら、身分証明だ」

軽口を叩きつつポケットからIDカードを取り出す。
特殊監査部加持リョウジ。
ネルフの中にいながら、ネルフを監視する異質な存在。
何故こいつが碇と――とはいえ、カード自体は本物。
僅かに警戒を解いて半歩下がる。

「金属バットか……念のため病院に行くぞ。いいな?」

「はい……」

加持とメグミに肩を借り、シンジはようやく立ち上がる。
足に力はなく、一歩一歩をゆっくりと。
途中、メグミは振り返る。
ヒカリに。

「――一つ、貴様に言い忘れたことがある」

「な、何よ……?」

「貴様が止めたせいで碇はこの様だ。貴様が飛び出したお陰で、そこの妹は右眼を失うところだった。それどころか、わたし達もどうなっていたか分からぬ」

聡明なヒカリはすぐ気づく。
都合よく捻じ曲げていた事実を覆される。
シンジが死ぬということは、パイロットを失うということ。
最悪、使徒に負けて人類は滅亡する。

――ワタシガ、ミンナヲ殺スノ?

メグミは冷淡に射抜く。
仇のような眼差しで。

「わたしは貴様が大嫌いだ。他人を罵倒し、見下し、己は潔白だと主張する偽善の固まりが」

「ぎ、ぜん……? そんな、あたしは――」

「見殺しは殺人を容認するのと同義。碇を見捨てたことで貴様の大嫌いなものと同じ。いや、認知しない時点でそれ以下だ」

許すつもりなど毛頭ない。
だからこそ、容赦なく伝えられる言葉。

「貴様は人殺し以下だよ、下種が」

「――ぁぁああぁぁぁあああああっっっ?!!?!」

悲鳴という言葉では表せない。
彼女の世界が壊れた音色。
これまでの全てを否定された絶望が、破裂する。

姉の変貌に呆然となるノゾミ。
コダマは咄嗟にヒカリを抱き締める。
自らを引っ掻かぬように。

メグミとコダマの視線が交わる。
そこには怒りや憎しみなどはなく。

「――すまぬな」

「仕方ないさ」

短い応酬。
言葉に万感は込めた。
メグミは肩を貸すシンジと共に歩き出し、コダマは二人の妹に心向ける。
振り返ることは、なかった。

歩く。
力の入らないシンジの足に、歩調を合わせて。
抱き上げた方がまだ早い。
だが、初対面の加持を信じきれず。
当の本人も承知の上だと気づきながらも、シンジを歩かせた。

「…………ごめん」

「何故謝る?」

「………………俺がもっと強ければ、誰も傷つかずに――」

「済むとでも?」

無言。
シンジも分かっている。
強くなればなるほど、更なる強敵がやってくることを。
身に染みている――それでも思わずにはいられない。

「貴様一人で勝てる相手など、高が知れる。それでも一人で戦う気なら大馬鹿者だ」

10cmにも満たない距離。
汗の匂いも誤魔化せず、互いの息がかかるほど。
けれど不思議と心落ち着く。
でなければ、自然と視線は交わせまい。

「――周りを見ろ。貴様を信じる仲間がいる。力になりたいと願う者達がいる。その気持ちを汲み取るのも、強さだ」

公園の前に駐車する護送車の扉を、黒服の一人が開ける。
加持が先に入り、次に二人がかりでシンジを――。

「手早く強くなりたければ、覚悟することだ」

その時視界に入る、もう一台の護送車。
黒服の男がこちらをじっと見つめ、目が合うと小さく頷く。
時刻はすでに夕方。
時間切れだ。

「――助言はここまでだ」

トンっ……。
背中を押し、シンジを乗車させる。
振り返ればどこか驚きの表情。
――わたしは今、どんな表情なのだろうな?

「しばらくここを離れる。暫しの間、レイのことは任せたぞ」

「なっ……! 俺にはそんな――!」

「お前にしかできないことだ。記憶を失ったところで本質は変わらぬ。お前はほんの少し、子供に戻っただけだ。心配ない」

そう――心配などしていない。
貴様なら大丈夫だ。

伝えたい想いは全て言えた。
あとはここにいる者達で何とかなる。
――護送車の扉をスライドさせる。

「夜祁。その、ありがと……」

手が止まる。
『メグミ』ではなく、『夜祁』。
あれほど呼ばれたがっていたのに、嬉しくないんだな……。

「またな」










扉を閉じるのを合図に、護送車は走り出す。
見送り、メグミがもう一台に近づく。
そして2、3、黒服と言葉を交わすと素早く乗り込み、護送車は走り出した。

「――行ったぞ」

公園すぐ傍のマンション屋上。
風が吹き荒れるその場所から、金髪の男は見下ろしていた。

隣には、眼鏡をかけた秀才風の男。
ノゾミを未知なる恐怖で縛り、早々に立ち去った最後の仲間。
手すりに背を預け、風で捲れる参考書から目をようやく離し、金髪の男を見る。
左手に握り締める、肘から先の右腕を。

「強くなったようだね。あの頃よりも、ずっと」

「俺を捨て駒にした感想がそれか? そんなにあいつが怖いのか?」

「ああ、怖いよ。最も警戒すべき敵だから」

だからこそ、手間をかけてまで改造人間をぶつけた。
しかもこれ以上にないほど有利な状況で。

結果がこれだ。
ただ一人の仲間で覆る戦況。
死中にありながら活路を切り開く判断力、それを支える実力、そして強運。

――判断は間違えていなかった。

「さあ、行こう。急いで腕を直さなくちゃね」

「分かってるよ。――それよりお前の名前、なんて言ったっけ?」

眼鏡の青年は振り返る。
歳相応の微笑みを見せながら。

「ゼノだよ。すぐに忘れるだろうけどね」

二人は、屋上から姿を消した。
















EPISODE: 16


Adoption selection


















PM7:59。
使徒再度進攻まで、42時間1分。

中央病院。
外科病棟317号室。
シンジの病室。

夜の世界。
眠らない街灯りを見下ろしながら、シンジは窓に映る自分を撫でる。

検査の結果、脳に異常なし。
筋肉痛と疲労もあり、念には念を入れての入院。
回復のため、これから救急ポッドに入れられる。

けど、それよりも大切なことがある。
今すぐにでも、やらなければならないことが。

『手早く強くなりたければ、覚悟することだ』

覚悟。
そう――自分には覚悟がなかった。
大切な人を巻き込む覚悟。
傷つけてしまう覚悟。
失ってしまう覚悟。

必要ない、と言うかもしれない。
だからシンジは逃げていた。
逃げて逃げて、逃げ続けてきた。

でも、もう逃げられないから。
だから覚悟を決める。

――ノックする音。
夜の来客。
誰かは分かっている。
何故なら、自分が呼んだから。

「入って」

スライドする扉。
黒髪の少女が、前に出る。

「来てくれてありがとう。――山岸さん」

「いえ……」

促し、マユミをパイプ椅子に座らせる。
それ以上の言葉はなく、互いに沈黙を保つ。
シンジは話すのを躊躇い、マユミは次の言葉を待つ。
――本当に話すべきなのか?
もっと、違う方法があるんじゃないのか?

出逢った瞬間に崩れる覚悟。
その迷いが、マユミにも手に取れる。
だから、その背中をそっと押そう。

「――何故わたしを呼んだのか、分かっています」

顔を上げる。
そこには、マユミの笑顔。
喜びも、苦しみも、悲しみも、全部混ざり合わせてなお作り出された笑顔。

「それでも、言って欲しいです」

分かっている。
分かっているからこその笑顔。

「たくさん、たくさん傷ついて、それでもずっと護ってくださいました。その気持ち、とても嬉しいです」

約束だったから。
二人だけの秘密にすると、あの時約束したから。
それをずっと守ってきた。
馬鹿みたいに。

「でも、もっと大切なものがあるから、そのためにはわたしを傷つけなくちゃならない。一つしか、選べないんです」

だから選んだ。
ううん、選ぶしかなかった。
一つか全て――結論は、簡単に。

「だから傷つけてください。あなたの言葉で、あなたが護ってきた、わたしの心と約束を」

「やま、ぎしさん……」

分かっていながら迷い続ける。
だから微笑む。
力になることこそが、マユミにとって至上の喜びだから。

「さあ――聞かせてください。碇君はわたしに、何をして欲しいんですか?」

背中は押された。
最後の一歩を、踏み出した。

「山岸さん…………俺に、使って欲しい……」










「君の"ギフト"を――」

顔を上げることは、できなかった。











偽・あとがき


15話できてから、どれくらい振りでしょうか……半年?
どうも、どんどん更新が遅くなるシーファンです。

新劇場版、観ました。
……今更話題にするのも、どうかと思うんですけどね。
とりあえず、来月に出るDVDは買います!
次回も期待していますぞーーー!

次こそは、イスラフェルと決着を!
その後はシンジの誕生日ってことで。
俺のホームページで外伝もやってますんで、よろしくお願いしますね。
でわでわ〜。