まぐねっと☆ぱわぁ
(後編)


 

 

 ラウンジから見下ろすジオフロントの景観は、あたしに新鮮な感動を与えてくれた。
 今まで本部にはシンクロテストや定期検診など、EVAのパイロットとしてしか来たことがなかったけど、あたしが普段暮らしている街の下にこんな豊かな自然が広がっているなんて、知ってはいたけれど意識したことはなかったのだ。

 コーヒー中毒の赤木博士が誉めているというだけあって、あたしが注文したアイスコーヒーも絶品。
 向かいには加持さんの素敵な顔。
 ちょっとしたデート気分に浮かれたあたしは、加持さんの土産話に引き込まれ、ようやく機嫌も直りはじめていた。

「へぇ〜、加持さん、普段はそんなコトしてるんだぁ」

「話したことなかったっけか?
 一尉なんていっても給料とかの待遇面だけの話で、葛城と違って管理職ってわけじゃない。
 結局はお偉いさんに顎でこき使われる小間使いの営業マンでしかないのさ。
 しかも、監査部って肩書きだけでよその部署からは嫌われるからな。
 いいとこないよ――唯一の楽しみと言えば、出張先で美人に逢えるチャンスがあることくらいかな」

「あ〜、またそんなこと言ってぇ。加持さんにはあたしがいるじゃない」

「俺がアスカに手を出したりしたら犯罪だよ。
 それに、男が美人に惹かれるのは宿命みたいなもんでね」

「もうっ、そうやってすぐに子供扱いするんだから。
 あたしだって、あと3年もすればミサトなんて問題にならないくらいの美人になるんですからね〜だ!」

「はは、そうだな。
 アスカだったらきっと、男だったら誰もが振り向かずにはいられないくらいの美人になるよ。
 だから、それまでに自分の中の磁石をきちんと磨いておくんだな」

「……磁石?」

 あたしは少しだけ不快そうな表情をしながら、首を傾げて問い返す。
 言うまでもなく、今あたしを苦しめてるシンジとの『磁力』の件が頭をよぎったからだったけど、そのことを口に出すのはあえてやめておいた。

 加持さんは、あたしの大好きな深みのある笑顔を浮かべ、あたしの言葉に応える。

「人間は、誰でも心の中に磁石を持っている。
 その磁石の磁力は特別なものでな、その人にとっての運命の相手とのみ引き合う性質をしているんだ。
 だが、人間ってのは知っての通り弱い生き物だからな。
 時として、磁力を感じもしない相手にころりと騙されて結ばれちまったりする。
 そんなつまらないことで運命の恋人を逃すようなことにならないように、人間はいつでも自分の磁石の精度を高めておかなくちゃならないのさ」

「やだ加持さん、なんかマヤみたいなこと言ってる〜」

「マヤちゃんかい?」

「そ。だって加持さんが言ってるのって、運命の赤い糸みたいなものでしょ?」

「ああ……なるほど、そういう言い方もできるかな。
 恋心は磁石の如きもの――なんてな」

「加持さんて、意外とロマンチストなんだぁ」

 からかうように言うと、加持さんは苦笑して肩をすくめた。

「往々にして、男って生き物はロマンチストなものなんだよ。
 女よりも現実に対する抵抗力が低いんだな。
 辛くて苦しい現実を克服するために、自分の中にある理想を体現しようとする。
 時として、それが現実からの逃避であると分かっていてもな。
 ――ま、幾つになっても男はガキってことさ」 

「ふ〜ん。そういうものなの?」

「そういうものなの。
 だから俺も、俺の磁石が惹かれる運命のパートナーを日々捜し求めてるってわけさ」

「やだ、加持さんったら。
 でも大丈夫よ、加持さんの運命のパートナーは、今加持さんの目の前にいるから。
 もちろん、あたしの磁石も加持さんだけに向いてるんだからね♪」

「そりゃあどうも。光栄だねえ。
 シンジくんに聞かれたら怒られそうな話だけどな」

「もう、シンジの名前なんか出さないでよ。
 この『磁力』は、加持さんが言ってたのとは全然違うんだから。
 こんなのはただの磁石とおんなじ。赤い糸でもなんでもないわ」

 加持さんと過ごす時間はとても楽しい。
 なんていうか、会話がとても巧いのよね、加持さんって。
 あたしの言葉に即座に答え、あたしが反応しやすい方向に流れを誘導してくれる。
 だから、加持さんとの会話で言葉が途切れたことなんてなかった。
 いつもいつも、あたしは加持さんと喋っていると時間を忘れてしまうのだ。

 この辺、本当にバカシンジとは雲泥の差。
 反応も鈍いしトンチンカンなことしか言わないし、あいつとの会話なんて長続きした試しがない。
 せいぜい口ゲンカしてるときくらいかな、あいつと一緒にいて時間を忘れることなんて。
 それにしたって毎度毎度言い返してくるわけじゃなくて、すぐに謝ってきて会話を打ち切られることも多いし……。

 ……ヤメ。
 あんなヤツのことなんて、加持さんと一緒にいるときに考えることじゃないわ。
 今は加持さんのことだけ考えないと。
 せっかく忙しい時間をあたしのために割いてくれてるんだから。

 あたしはキラリと目を光らせて、加持さんがくわえるタバコを見つめた。
 なんていうか、加持さんがタバコを喫ってる姿ってすごい絵になってカッコイイのよねえ。
 口から吐き出される青灰の煙が加持さんの体を巻いて包む様なんか、本当に一枚の絵画みたい。
 町中とかでタバコ喫ってるオヤジのことはムカつくのに、加持さんだとついつい見惚れちゃうんだから不思議。
 それってやっぱり、あたしがそれだけ加持さんにメロメロってことかしら?
 な〜んちゃってね♪

「ねえねえ加持さん、あたしにもそれ、一本ちょうだい」

 加持さんの胸ポケットを指さしておねだり。
 加持さんは呆れた顔であたしを見返した。

「タバコを、か? アスカが?」

「いいでしょ? あたしも前から、一回喫ってみたかったんだ」

「やめておけ。子供の喫うものじゃない」

 苦笑いと共に、加持さんはやんわりと拒絶する。
 子供と言われたことに気分を概して、あたしは頬を膨らませた。

「子供じゃないもん!」

「大人だからってみんな喫うわけでもないさ。
 こんなもの、健康に悪いだけで何の得にもならない。
 金だって意外と馬鹿にならないしな。
 大体、アスカに煙草教えたなんてことがバレたら、俺が葛城に殺されちゃうよ」

「ミサトなんて関係ないじゃない。
 だいいち、喫ってる人が言っても説得力な〜い」

「そう言うなよ。年寄りの忠告ってのは素直に聞いとくもんだ」

 そう言って首をすくめた加持さんの姿は、なんだかあたしには想像もできないくらい重たい疲労と倦怠をにじませているように見えて。
 今まであたしが見たこともない、くすんだ空気をまとった加持さん。
 それとも、単に加持さんのそうした部分にあたしが気づくことができなかっただけなのか。
 それまで身近に感じていた加持さんの存在が急に遠くなったように思えて、あたしはあわててからかいの言葉を投げかけた。

「加持さん、その言い方、なんだかすっごくオジンくさい」

「アスカから見れば、俺なんか充分おじさんだろ?」

「そんなことないわよ! 加持さんは素敵だもん」

「そりゃどうも。
 でも、アスカには同年代の男の子の方がお似合いなんじゃないか?
 たとえばシンジ君とか、さ」

「なっ――」

 あたしは思わず眉を逆立てて立ち上がる。

「なんでそこにバカシンジが出てくんの!?
 いくら加持さんでも、言っていいことと悪いことがあるわ!」

「たとえばだよ。そんなにムキにならなくてもいいだろ?」

「たとえばだろうとなんだろうとイヤ!
 あたしはシンジなんて大ッキライ!
 なんであんなサイテーなヤツとあたしがどうこうなんなくっちゃいけないのよ!?」

 自分でも過剰な反応だったとは思うけれど。
 けれど、そのときのあたしはとにかくシンジとのことをあれこれ言われるのがイヤでイヤで仕方なくて。
 もちろん、ずっと憧れてた加持さんに他の男の子とのことをからかわれたショックというのもあったとは思う。
 だけどそれよりもなによりも、そのときシンジの名前を聞いたあたしの脳裏に浮かんだのは、ファーストと仲良く寄り添うシンジの姿で。
 そして、そんなあいつの姿を思い浮かべることで胸に鋭い痛みが走ったことを認めるのが怖かったから。

 あたしはテーブルを回り込んで、広い背中にもたれかかるように加持さんに抱きついた。
 加持さんはなにも言わない。
 拒みもしないし受け容れてもくれない。
 それでもあたしは、この温もりに縋る意外、今の自分を保つ術を見出すことができなかった。

「あたし……あたしが好きなのは、加持さんなんだから……。
 加持さんのことしか、あたし、見てないんだから……」

 吐息に溶けた想いが加持さんの心に染み込めばいいと願いながら、耳元で囁きかける。
 けれど、それに加持さんが返した反応は、苦笑いだけ。
 泣きわめく赤子をあやすようにあたしの頭を軽く撫でつけ、肩越しに絡む腕を優しくほどくと、加持さんはゆっくりと立ち上がり、あたしを見下ろした。

「そんな風に、自分の気持ちから逃げ出すもんじゃない」

 いつもよりもさらに優しい加持さんの声。
 けれど、それは紛れもない拒絶の言葉。

 加持さんには、あたしの想いと向き合うつもりなんかない。
 直感的にそのことを悟ったあたしは逆上した。
 屈辱、焦燥、悲嘆、憤怒。
 色んな感情がない交ぜになって、それでもあたしは加持さんの心を押し止めるべく声を張り上げる。

「逃げてなんかない! あたしは本気で加持さんのことが好きなの!」

「だが、今、俺を目の前にして俺を好きだと言ってくれていても、アスカの心に映っているのは別の人間だ」

 思いもかけない指摘を受けて、あたしの肩がぴくんと跳ねる。
 図星を突かれたその事実を、けれどあたしはどうしても認めることができなくて。

「そん――そんなこと、ない!」

「言っただろう? 自分の気持ちから逃げ出すもんじゃない。
 俺は一応、アスカの兄貴役を自認してるつもりではいる。別に父親役でも構わないが。
 だが、そのいずれにしても、アスカが自分の気持ちから目を背けて楽になるための、身代わりの人形になってやることだけはできないんだ」

「加持さんをだれかの身代わりと思ったことなんか、一度もないわ!
 あたしは、ドイツにいたときからずっと、ずーっと加持さんのことが好きだったんだから!
 簡単に好きな人ころころ変えるような、そんないい加減な女じゃない!」

「……アスカ。
 好きな相手が変わるのは、決して恥ずかしいことなんかじゃない」

 腰をかがめ、あたしを正面から覗き込むように加持さんが頭の位置を落とす。
 それは、同じ目の位置で話すという幼児に対する扱いそのもので。
 だけど、加持さんの目はとても真摯で真剣で、あたしはそのことについて抗議の声を上げることさえできなかった。

「お前が俺のことを好きでいてくれてるのは知ってるよ。
 そのこと自体はとても嬉しいし、単なる憧れだなんて馬鹿にするつもりもない。
 だが、お前が俺に抱いていたのは、子供が親に庇護と温もりを求めるようなものでしかないのも事実だ。
 それもまた、『好き』ってことの形のひとつではあるが――
 だが、お前はもう、もっと自分にとって大切だと思える『好き』って気持ちを、ちゃんと見つけることができたんだろ?」

「……そんなの……見つけてなんか、ないわよ……!
 あたしにとって加持さんより大切な人なんてどこにもいないんだからっ……!」

「それは、自分の気持ちに向き合って傷つくことを恐れてるからだ。
 俺が相手なら、アスカは甘えて守られて、楽に生きていくことができる。
 だが、それじゃあアスカはいつまでたっても子供のままだ。
 たとえ傷ついても辛くても、時には相手を助け、時には相手に助けられながら、一緒に手を取り合って歩いていける――
 そんな相手が、アスカには一番相応しいよ」

「それが……シンジだって言うの……?」

「……さあな。俺には分からない。
 俺は、アスカじゃないからな。
 だが――俺の言葉を聞いて、アスカはシンジ君を思い浮かべた。
 それはつまり、アスカがシンジ君に対してそういう想いを抱いてるってことじゃないのか?」

「それは、加持さんがさっきシンジの名前を出したから!」

「そのずっと前から、アスカはシンジ君のことを考えていただろう?」

「……!」

 加持さんの言葉に浮かび上がったあいつの笑顔。
 今ここにいるはずもないその姿は、けれどあたしの視界に映るどんな風景よりも鮮やかな色彩を放ち心を埋める。

 加持さんが目の前にいるのに。
 今、あたしと話してるのは加持さんなのに。

 だけど――あいつの笑顔の横にいるのは。

「――違う! 違う違う違う違う、違うっ!!」

 胸を締めつける幻のふたりから逃げ出すように、あたしは加持さんに抱きついていた。
 あたしは大きく息を吸い込んで、加持さんの温もりと匂いで肺を満たす。
 体の内側全てを加持さんに埋め尽くされたくて。
 そうすれば、きっと心を占領するあいつのことも追い出せるはずだと信じて。

「あたしは加持さんが好きなの! あんなヤツのことなんかなんとも思ってない!」

 だって。
 加持さんのことを考えるときみたいに、ドキドキしたりしないもの。
 うきうきそわそわ、幸せな気持ちになったりしないもの。
 一緒にいると楽しいときだってあるけれど。
 だけど、あいつのことを考えるとき、あたしはいつも、とても苦しい。
 苦しくて、切なくて、どうしようもないくらいイライラして。

 だから。

「お願い、加持さん。
 あたしを子供扱いしないで。
 あたしだって……オンナなんだから。
 あたしには、加持さんしかいないの……」

「アスカ――」

 加持さんの手が、あたしの肩にかけられる。
 体を引き離されようとしている、そのことに気づいてあたしはいっそうの力をこめてしがみつく。

 と――加持さんの動きが止まった。

「……ふむ」

 どこかとぼけた感じな加持さんの声。
 場違いなそれにあたしが戸惑うより早く、肩に置かれた加持さんの手の位置が変わる。
 あたしを突き放すのではなく、あたしを包み込むように。

「――わかった、アスカ」

「……え?」

 思いもかけない優しい言葉。
 あたしは弾かれたように顔を上げた。

 そこには、これまであたしが見たこともないような笑顔であたしを見つめる加持さんがいた。
 だけど、その笑顔はいつもあたしの心をとろかせてくれるような甘いものじゃなくて。
 なぜだろう――奇妙な不安を抱かずにはいられない翳りのようなものが確かに感じられて。

「……加持……さん……?」

「アスカ」

 加持さんの腕があたしの背中に伸びる。
 優しさなんてカケラもない荒々しい動作で抱きすくめられて、あたしは息を詰めた。

 信じられないという思いがあった。
 今まであたしから加持さんに抱きついたことはあっても、加持さんがあたしを抱きしめてくれたことはなかったから。
 あたしから加持さんへの想いはいつも一方通行で、加持さんがあたしをオンナとして扱うことはなくて。
 だから、懸命にすがりついておきながら、結局今回もまた拒まれるんだろうって、心のどこかでそうあきらめてた。

 それなのに。

 あたし、今、加持さんに抱きしめられてる。
 子供じゃなくてオンナとして、加持さんに抱きしめられてる。
 それだけじゃない。
 加持さんの腕はあたしの背中を、お尻をまさぐるように、イヤらしくうごめいている。

 引きつるように肺が震え、掠れた吐息がこぼれた。

 ……どうしよう。
 どうしよう、あたし――

 あたし……怖い……。

「ま、待って、加持さん――」

「大人として扱ってくれと言ったのは、アスカだろ?」

 耳元で囁かれた加持さんの言葉に、あたしは拒絶の言葉を失う。

 バカみたいだった。
 加持さんに向かってさんざん子供じゃないと主張しておきながら、あたしは今まで一度も、本当に大人として扱われることがいったいどういうことなのか、そのときどんな風に振る舞えばいいのか、想像したことさえなかったのだ。

 今あたしの目の前にいる加持さんは、あたしがよく知っている優しい大人の男性じゃない。
 あたしが大ッキライな他の男とおんなじ、バカでスケベなただのオスだ。

 ――違う。
 あたし、こんな風になりたかったんじゃない。
 こんな加持さんを見たかったんじゃない。

 だけど。
 今この瞬間、確かに加持さんはあたしのことを見つめてくれてる。

 あたし――あたしは……。

 喜びはなかった。満たされるような幸福感もなかった。
 ただ、加持さんのものになれるという魅惑に抗うことはどうしてもできなくて、あきらめにも似た気持ちで加持さんの背中に腕を回そうとした、そのとき。

 背中が引っ張られるような感覚に、はじめて気がついた。

 間違えるはずもない。
 ――『磁力』だ。
 シンジがあたしの後ろにいる。
 強さからして、ラウンジの入口あたり。
 振り返る勇気なんてなかったけれど、確信があった。
 そこからシンジが、あたしと加持さんを見つめている――

 心臓が止まるかと思った。
 それくらい強い恐怖と絶望が心を覆い隠して。

 ――いつから?
 シンジ、いつからあたしたちのこと見てたの?

 どんな気持ちで、あたしと加持さんの姿を見ているの?

 心と体がふたつに引き裂かれそうな感覚。
 あたしは今、確かに目の前の安らぎを、ずっと憧れてきた男性に全てを委ねて苦痛や苦悩から解放されることを求めている。
 今までにないくらいに強く、激しく。
 そうすれば、きっと楽になれるから。
 加持さんだけに頼って甘えて愛してもらって、そうすればあたしは、加持さん以外の人間の前で今まで通り強い自分を演じることができるから。

 だけど。

 背中に感じる『磁力』が。
 シンジの存在が。
 思考を放棄して加持さんの中に墜ちていこうとするあたしを繋ぎ止めるのだ。

 混乱してただ縮こまるだけのあたしにしびれを切らしたように、加持さんはあたしの体を救うように持ち上げて、テーブルの上に押し倒す。
 さりげない仕種で距離を縮めてきた加持さんの唇から、あたしは思わず顔を背けた。
 加持さんはムキになって追ってこようとはせず、そのままこめかみに唇を押し当ててきて。
 鼻息にくすぐられる髪の根。耳のあたりにぞわぞわとした感覚が広がり、首筋を伝って背筋を震わせる。
 甘美とも悪寒ともつかない未知の感覚。
 思わず息を詰めて身を強張らせるあたしの隙をつくように、加持さんの指先が胸元のリボンに伸ばされて。

 加持さんなんだから……別にいいか。

 自分に言い聞かせるように、あきらめの言葉で胸を満たした、そのとき。

 あたしは――無意識のうちに、加持さんを突き飛ばしていた。

 反動で、あたしの体が滑るように加持さんの反対側、テーブルを挟んだ位置に転がり落ちる。
 床に体を打ちつけた痛みに、あたしは自分の行動をようやく認識することができた。

 あたし――もういいやって思ってたのに。
 どうせこんなもんなんだから加持さんに抱かれちゃおうって、そう考えたはずなのに。
 どうしてあたし……加持さんのこと、拒絶しちゃったの?

「あ――か、加持さん、違う、今のは――」

 弁解しながら、よろけるように立ち上がる。
 途端にあたしの体は重心を失って。

 背中に当たる、固く冷たい壁の感触。
 磔にされたみたいに、あたしの体はそこにへばりついた。

 こぼれ落ちる涙。
 どうしてなのか、自分でもわからない。
 ただ、胸に温かいものが満ちて、それがそのまま目からあふれかえったかのように。

 背中を壁に押しつける。
 今度は自分の意志で。

 あいつが、いる。
 壁一枚を挟んだこの向こうに。
 あいつがあたしと同じように壁に体を貼り付けて、『磁力』であたしを縛りつけている。

 壁越しに伝わってくる温もり。存在。心。
 そんなもの、ただの幻でしかないのかもしれない。
 あたしを身動きできなくしているのはただの『磁力』。
 多分、そこに意味なんてない。
 磁石同士がくっつくことに意味がないように。

 だけど。

 顔を上げると、そこには加持さんが立っている。
 少し距離を詰めれば手が届く、それくらい近いのに。
 ついさっきまで、あの腕の中に抱きしめられていたはずなのに。
 あたしの心ひとつであの人に全てを委ねることができたはずなのに。

 あたしの心は。
 あたしの――『磁力』は。

「ひくっ……うえっ……」

 拒絶も謝罪も出てこなかった。
 頭の中がぐちゃぐちゃで。
 どうしていいのかわからなくて。

 加持さんのことが好き。大好き。
 カッコよくって温かくて、一緒にいると安心できるから。

 あいつのことは大ッキライ。
 冴えなくって頼りなくって、うじうじしててナマイキで。
 あいつのこと考えると、あたしはいつも、苦しくて切なくて、イライラして――

 だけど、それとおんなじくらい胸がドキドキして――――

 

 ――――泣きたく、なる――――

 

「うえええええええん……!!」

 あたしは子供のように声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。
 加持さんは、そんなあたしを優しく見つめて。

「――もう、間違えるなよ」

 笑いながらあたしの軽く頭を叩いてくれた。

 ……お芝居だったんだ。全部。
 あたしに気づかせるための。

 今まであたしがどんなに迫っても加持さんが相手にしてくれなかった理由がようやくわかった。
 あたしはやっぱり、バカでどうしようもないくらいお子さまで。
 自分の気持ちがわからないくらいの。
 ううん、本当はとっくの昔に気づいてたクセに、素直になるのが怖くていちいち言い訳つけて誤魔化して。

 加持さんの言葉をあれだけ否定しておいて、結局は加持さんの言うとおり。
 あたしは……本当に、救いようがないくらいの大バカだ。

 加持さんは、それ以上あたしになにも言わなかった。
 ただ、ラウンジを出ていこうとするその途中で、廊下に向けて声をかける。

「年寄りの出番は終わりだ。後は任せた」

 その相手がいったい誰かなんてことは、あたしには確認するまでもなくわかってて。
 ――背中から『磁力』が離れる。
 あたしはずるずると、支えを失ったみたいに崩れ落ちて。
 そして、床にみっともなくへたり込んだ恰好のまま、移動する『磁力』を追って入口の方に鋭い視線を向けた。

 そこに立っていたのは――自信に乏しい表情であたしを見下ろす少年。
 加持さんみたいにあたしを包み込んでくれそうな大きさなんて感じられない。
 身を投げ出したくなるような深みも見られない。

 ――それなのに。

「……あんたのせいよ……」

 泣きじゃくりながらあたしは言葉を絞り出す。
 シンジは戸惑ったように、けれどあたしから視線を逸らさずあたしの言葉を受け止めた。

「せっかく、加持さんがあたしのこと見てくれたのに……。
 加持さんの彼女になれるチャンスだったのに……。
 あんたが――あんたなんかがいるから……!」

 体が引きずられる。シンジの方に。
 『磁力』は消えない。
 むしろ、いっそう強くなってさえいるかのように。

「……ごめん」

 うつむきながらこぼされた、いつも通りのあいつの言葉。
 したから見上げるあたしにさえ、あいつの表情は確かめられない。

 わかっていたはずなのに。
 あいつの反応なんか、決まり切ってるはずなのに。
 それでもあたしは、望む反応が得られなかったのが悔しくて。

「なんで怒鳴られてんのかもわかってないクセに謝ってんじゃないわよ、バカ!」

「……わかってるよ」

「わかってない! あんた、なんにもわかってないじゃない!」

「わかって――」

 シンジの肩が、一瞬小刻みに震えた。
 拳が握りしめられて。

「わかってないのは……なんにもわかってないのは、アスカの方だろ!?」

 叩きつけるように叫ばれて。
 あたしは思わず息を呑む。

 それは、あたしの知らないシンジの姿。
 あたしの知らないシンジの激しさ。

 シンジは泣き出しそうに顔をゆがめて、それでもすがりつくようにあたしを見つめて。

「僕がいつも、どんな気持ちで謝ってるか――
 ア、アスカに綾波とのことからかわれるたびに、どんな思いしてるか!」

 耳まで顔を真っ赤にして。
 スマートさなんてカケラもない、ヤケっぱちになったみたいな言葉。

 だけど、それは。

「僕はっ、ずっと――ずっと、ア、アスカのことっ――!」

 ずっと――ずっとずっとずっと、あたしが欲しくてたまらなかった言葉。

 耐えることなんて、もうできなかった。
 『磁力』に導かれるまま、あたしはシンジの首にかじりつくように抱きついた。
 あたしよりちょっとだけ小さな、男にしては細身すぎるシンジの体。
 ひ弱で頼りないって笑ってたはずのシンジの体。
 だけど――今はコのからだが与えてくれる温もりが、なにより愛しく頼もしくて。

「アアアア、アスカ!?」

「……バカ」

「っ……ご、ごめん」

「謝るな。……バーカ」

「……うん」

 『磁力』に縛られ不自由な両腕を必死に持ち上げて、シンジはあたしの背中に腕を回した。
 触れ合った腕と背中は『磁力』でぴったりとくっきあって。

 鼓動が交わり。
 温もりが溶け合う。

 加持さんに抱きしめられていたときとは違う、信じられないくらいの安らぎとときめき。

(恋心は磁石の如きもの、ってな)

 胸によぎるのは加持さんの言葉。
 そっか。
 ロマンチックでもなんでもない。
 あれって単純に、本当のことだったんだ。

 シンジを求めるあたしの心。
 あたしを求めてくれるシンジの心。
 ふたつの心が引き合って、ぴったりしっかり重なり合って。

「……『磁力』のせい、だからね……」

「……うん」

「……あんた、ほんとに意味わかってんでしょうね?」

 赤木博士が今解析に躍起になってるような、あたしたちの体と体を結びつける『磁力』のことを言ってるんじゃない。
 あたしが言ってる『磁力』は、そんな物理的なものなんかじゃないんだよって。

 シンジはこくりとうなずいて。

「だって……こ、こんなことになるずっと前から、僕の『磁力』は、ずっと、ア、アスカに向いてたんだから――」

「……は、恥ずかしいこと言ってんじゃないわよ、バカシンジ……」

 どちらからともなく、あたしたちは抱き合う力をゆるめる。
 間近で絡まる視線と視線。
 熱に浮かされたみたいにシンジの顔は真っ赤で、どこかとろんとしてて。
 女のあたしが言うのもヘンかもしれないけど、思わず生唾飲んじゃうような、ちょっと――ものすごくエッチな顔。

 ……でも。
 多分、あたしもおんなじ顔してるんだろうな……。

 意思の確認なんていらなかった。
 どちらもが求めて。
 どちらもが受け容れ合って。
 まるでそうなることが自然であるみたいに。
 本当に、本物の磁石同士が吸い付くみたいに。

 ……ああ。
 キスって……こんな風にはじまるんだ……。

 あたしとシンジはごく自然な動作で目を閉じて、そっと唇を寄せ合い、重ね合わせ。

 唇を押し潰す硬い感触に包まれながら、あたしたちは――

 

 ………………。

 …………。

 ……あれ?

 

「ハイ、残念ながら保護者ストップよ〜ん♪」

 

「……」

「……」

 およそ場違いな軽薄で明るい女の声に、硬直したような沈黙が通り過ぎる。
 あたしとシンジの唇を隔てるもの、それは見覚えのあるクリップボード。

 怒りに全身が打ち震える。
 あたしはそれを荒々しく払いのけ、シンジから離れてくるりと体の向きを変えた。
 使徒にさえ向けたことのないような殺気立った眼差しで声の主――ミサトをにらみつける。

「ミィ〜サァ〜トォ〜……!」

 このっ……この、クサレEカップ女!
 世の中にはTPOってもんがあるってーこと知らないの!?
 よりにもよってこんな大事な、あたしの人生の中でも記録的な瞬間邪魔されてっ!
 絶対ブッ飛ばすっっっ!!

 けど、ミサトはあたしの殺意になんて動じる風もなく、いつもの「ごめんちょ♪」って感じの表情で困ったように笑ってる。

「いやあ〜、ごめんね〜、アスカもシンちゃんも。
 あたしもあんまし野暮なことはしたくないんだけどさあ、リツコがすっごい目でにらんでるもんだから」

 自分の背後を指さすミサト。
 そこには確かに、不機嫌そうにあたしたちのことをにらみつける赤木博士の姿があった。
 そのほっぺたが微妙に赤らんでるのは、多分あたしの目の錯覚なんかじゃないだろう。

「命令違反よ、アスカ、シンジ君。とりあえず離れなさい」

 取り繕ったようなその声に。
 そしてなにより、ミサトの言葉と態度に。
 あたしとシンジはピンときた。

「ま、まさか、ミサトさんとリツコさん……ず、ずっと、み、見てたん、ですか……?」

 ギクッと強張るふたりの体。
 ミサトが赤木博士に白々しい笑顔で話しかけた。

「べ、別にずっと見てたってワケじゃないわよね〜、リツコ?」

「え、ええ、もちろん。たまたま今の場面に出くわしただけよ」

「そ〜そ〜、そうなのよぉ。
 まさかあたしとリツコがそんな、覗き見なんて大人げない真似するはずないじゃないのよねえ?
 シンちゃんが『わかってないのはアスカの方だろ』なんて熱い魂の叫びに興味引かれて覗きに来たなんてことは全然――」

「ミサトッ!」

「あ……」

 あわててミサトが口を押さえる。
 赤木博士は見たこともないくらいあわてふためいて。
 シンジは首まで真っ赤になって硬直してる。
 そして、あたしは。

 もちろん憤怒に顔を赤黒く染めて、握り拳を固めていた。

「このっ……デバガメ三十路女ーズ!
 あんたたち今日という今日はゆるさないからねっ!?」

「ちょ、ちょっとアスカ、あたしはまだ29よっ!?
 リツコと一緒にしないでっ!」

「大きなお世話よミサト!
 だ、大体アスカ、私たちが見張ってなかったらあなたたちどんな間違いを犯していたことか!」

「そうよアスカ! 大体あんたたちちゃんとゴム持ってんの!?」

「お願いだから保護者として適切な言動とって頂戴ミサト!」

「う・る・さ・いぃ〜っ!」

「お、落ち着きなよアスカ! テーブルはさすがにまずいよ!」

「なによシンジ! あんたコイツらの味方するワケぇ!?
 せ、せっかくのあんな――あんな大事な瞬間邪魔されて腹立たないの!?」

「そ、そりゃあ僕だって残念だし悔しいしできれば初号機でふたりのこと握りつぶしちゃいたいけど……。
 ってそうじゃなくて、そんなので殴ったらミサトさんもリツコさんも死んじゃうよ!」

「いーのよこんな年増女ども10回や20回死んでも!」

「「誰が年増ですってぇ!?」」

「あんたたちよっっっ!」

「ちょ、ちょっと待ったアスカ――ミ、ミサトさんもリツコさんも落ち着いて!」

「うるさいシンジ、邪魔すんな!」

「そーよ、ちょっとシンちゃん黙ってなさい!」

「シンジ君、女にはね、絶対に引けない場所というものがあるのよ」

「そうじゃなくって!」

 対峙するあたしと三十路ーズの間に割り込みながら、シンジが声を張り上げる。

「……僕たちの『磁力』……消えてない?」

「「「……え?」」」

 思いもかけないシンジの言葉に。
 あたしたちはそろって、間抜けな声をあげたのだった。

 

          ◇

 

「アスカ。もう行こうよ、遅刻しちゃうよ」

「う〜ん……。ねえシンジ、こっちの玉子サンドとミックスサラダサンド、どっちがいいと思う?」

「いや、僕に訊かれてもさ……」

「もうっ。こんなのもぱぱっと決められないなんて、だらしないわねえ!」

「なんだよそれぇ」

 不満そうに唇を尖らせるシンジの姿がおかしくて、あたしは思わず吹き出した。
 つまりあたしは、ずっと前からこういうシンジの反応が大好きだったってことなんだろう。

 結局あたしは玉子サンドとミックスサラダサンドの両方をつかみ、500mlのパック牛乳と一緒にシンジに手渡した。
 ちなみにシンジは、今日はおにぎりとウーロン茶らしい。

 ふたりで一緒にレジに行って、一緒に精算。
 今日の食事当番はあたしだから、お財布からお金を出すのもあたし。
 もちろん、実際にお金を払ってるのはミサトなんだけど。

「あ、そういえばさ、シンジ」

 コンビニの自動ドアをくぐりながら、あたしはシンジに声をかける。

「あんた、今日からあたしに料理教えんのよ」

「え……なんで?」

「あんたバカァ? あたしも料理作れるようになりたいからに決まってんじゃん!」

「いや、それはそうなんだろうとは思うけど、いきなりどうしたの?」

 はあ……。
 てんで理解してない感じできょとんと首を傾げるシンジの姿に、あたしはあきらめの境地で吐息を落とした。
 どーせこのバカシンジがあたしのオトメ心を悟ってくれるなんてことあるはずないとは思ってたけどさ。
 せめてもう少し反応してくれないことには、こっちとしてもやり甲斐がないっていうもので。

 ま、ちゃんとお料理できるようになってから教えてあげればいいか。

「いーから! 今日から特訓よっ!」

「う、うん……」

 釈然としない様子のシンジを置いて、あたしはさっさと歩きはじめる。
 それを小走りに追いかけて、シンジがあたしの横に並んだ。

 ……あ。

 いつもは、あたしのうしろを数歩遅れてついてくるだけのクセに……。

「……どうしたの?」

「なにが?」

 自分でもわかる、上機嫌な声。
 我ながらちょろい女だな〜とは思ったけれど。

「なんか、ニヤニヤしてるから」

「なっ……! せ、せめて笑ってるからとか言いなさいよこのバカシンジ!」

 ほんっとデリカシーないわねこの男はっ!

「ご、ごめん」

「だからっ! なにが悪いかわかってないクセに謝ってんじゃないわよ!」

「なにがって……ニヤニヤしてるっていう言い方が悪かったんじゃないの?」

「ちっがーう!
 そりゃあもちろんそうだけど、単に言い回しの問題で怒ったワケじゃないわよ!」

 叩きつけるように怒鳴ると、あたしは眉を吊り上げたまま、シンジの手をぎゅっと握りしめた。
 うん……大丈夫よね。
 多分、いま顔が赤いのは怒ってるせいだって見えるはず。
 手を握って照れてるだなんてシンジに知られたら、ハラキリものだもん。

 対してシンジは、真っ赤になってうろたえて。
 む〜、ちょっとあんた、ちょろすぎない?

 ……ま、あたしにだけちょろい男になってくれるんだったら問題ないけどね♪

「つまり、こーいうコト。わかった?」

「え? あ、いやその、う、うん……」

 ……わかってないわね、これは。
 てゆーか、あたしがなに言ったかも耳に入ってないのかも。
 なんか、おつむがフットーしちゃってるみたいだし。

 まあいいわ。これから徐々に、時間をかけてたっぷりわからせてやるから。

 手のひらに伝わるシンジの温もりはとても心地よくて。
 シンジも段々落ち着いてきたのか、やがてぽつりと口を開いた。

「でも、さ……。よかったね、『磁力』、なくなって」

「ん〜? なによ、あたしとくっついたりしなくなったのが嬉しいって言いたいのかなあ?」

「ち、違うよ。そうじゃなくて……。
 『磁力』があったままじゃ、こんな風にアスカと並んで歩いたり、手を繋いだりなんてしてるどころじゃないだろ?
 だから……」

 ふふっ。わかってるわよ〜だ、そんなこと。

 そう――あたしとシンジを散々に振り回した『磁力』は、なにがなんだかよくわからないうちに完全に消滅していた。
 一応ミサトと赤木博士の命令で、『磁力』が消えたあともさらに丸3日検査のために本部に泊まり込んでいたんだけど、結局異常は一切なし。
 科学者としての本領を発揮することなく恰好の研究材料を逃した形になった赤木博士は、せめて取得したデータだけでも完璧に解析してやろうと躍起になってるらしい。

 ま、そんなのは赤木博士の事情であって、あたしとシンジの知ったことじゃないし。
 シンジの言うとおり、あんなワケのわかんない力が消えてくれてせいせいしたって言うのが正直なところ。

 そりゃあ確かに、あたしたちが晴れてこうやって……その、せ、正式につきあうようになることができたのは、あの『磁力』のおかげだけど。
 やっぱり、自分の意志でもないのにあんな風にべったりくっついたって、嬉しくないもの。

 シンジの意志であたしの横に並んでくれる。
 あたしの意志でシンジの手を握ることができる。

 大切なのは、つまり、そういうことだと思うから。

「ね、シンジ」

「なに?」

「こーやって手を繋いでるとこファーストに見られたら、なんて言い訳すんの?」

 意地悪く笑いながらあたしが訊くと、シンジはムッとしたように唇を歪めた。

「言い訳って……そう言う良いかたするなよな。
 その……ちゃんと言うよ。アスカとのこと。
 別に、隠したりするようなことじゃないんだから」

「ほんとに〜?」

「ほ、ほんとだよっ!」

 ……そこでなんでどもるのよ?
 なんかアヤしいけど……ま、断言してくれたからゆるしてあげちゃおっかな♪

 なんて思ってたら。

「おはよう、碇くん」

 無機質で抑揚のない声が背中からかけられた。
 敵意を込めた眼差しで振り向くと、そこには案の定ファーストが無表情に立っていた。
 ただ、その視線はあたしとシンジの繋がれた手に注がれている。
 いつもはガラス玉みたいな赤い瞳にわずかな感情が揺らめいたのは、きっとあたしの気のせいなんかじゃないはずだ。

「おはよう、綾波」

「……おはよ、優等生」

 一応シンジにならって声はかけてやる。
 けれど、ファーストはあたしのことはちらっと視線を向けただけでさっくり無視して、シンジの顔をじっと見つめはじめる。

 こ、この女……相変わらず露骨にシンジにしかキョーミ示さないわね……。

「もう平気なの?」

「え? あ、『磁力』のこと? うん、もう大丈夫」

「そう」

 関心なさそうにさらりとうなずいて。
 それからファーストは、再び視線をあたしとシンジの手に下ろした。

「――それなら、どうして手を繋いでるの?」

 ぎくっ。シンジが動揺したのが手から伝わってくる。
 ……こいつ、さっきはあんな力強く断言してたクセして、ずいぶんうろたえてくれちゃってるじゃないのよ〜。

「どうして? 碇くん」

「い、いやその、これは……その」

 助けを求めるように、シンジがちらりとあたしを見る。
 けれど、あたしはあえてそれを無視した。
 はっきりしないシンジの態度で腹立たしいって言うのもあったけど。

 シンジの口から、ちゃんと言ってほしかったから。
 ファーストに、あたしのこと。

 やがて、シンジは意を決したように目を閉じて、ごくりと息を呑み込んだ。

「じ、実は綾波、僕とアスカ――」

 そう! 言っちゃえシンジ!
 あたし、あんたのこと、信じてるからね!
 握った手に力をこめて、無言のままエールを送る。

 そのとき、きらりとファーストの目が光った。

「なに?」

「……いやあの、僕が歩くの遅いから手を引いてくれてるだけで特別な意味はなにも――」

 ――ってコラァッ!

「このバカシンジ! あんたあたしのこと騙したのね!?」

 がくがくと、シンジの襟首をつかんでシェイクする。
 乙女の気持ちを踏みにじった罪、その命であがなってもらうわよっ!

「だ、騙してなんかないよ!」

「ウソ言いなさい! だったらなんではっきり言ってやんないのよ!?」

「だ、だって恥ずかしいから――」

「あんたバカァ!? なに女のコみたいなコト言ってんのよ!」

「アスカだって、委員長とかトウジに知られたら恥ずかしいだろ!?」

「ヒカリたちとファーストは違うわよ!」

「なにが違うんだよ!?」

 ヒカリも鈴原も相田も、別にあんたのこと狙ってるわけじゃないでしょ!
 そう言おうとしたあたしは言葉を呑み込んだ。
 ファーストがシンジのことを好きだなんて、絶対口にしたくない。

「とにかく違うのよ!」

「なんだよそれー!」

 言い争うあたしとシンジ。
 それを見ていたファーストが、取り立てて感慨も見せずにぽつりと言葉をこぼす。

「……そう。つまり、碇くんとセカンドは恋人同士になったのね」

 あんまりにも唐突な言葉に、あたしとシンジはそろって目を丸くする。
 人に関心のないこの女が、今のやりとりだけであたしとシンジの関係の変化を見抜いたってコトも驚きだけど、それ以上に、この女の口から「恋人」なんて単語が出てくるなんて夢にも思わなかったのだ。
 ……一応、こいつも恋愛とかに興味あったのかしら。
 そりゃああったに決まってるわよね。
 シンジのこと、好きなんだもん……。

 複雑な気持ちでファーストを見ていると、シンジはあたしの手をほどいてファーストに向き直り、柔らかく微笑んだ。
 頬をちょっぴり、赤く染めながら。

「……うん。
 その――アスカのこと、好きだから。
 だから……アスカと、つきあうことになったんだ」

 ボンッ!と爆発するように、あたしの顔が真っ赤になる。
 た、確かにそれは、あたしが言ってほしかった言葉なんだけど、こうしてはっきり言われると恥ずかしいというかなんというか。
 それに……やっぱり、なんだかファーストに悪いような気もするし……。

 けれど、あたしのそんなくらい思考を吹き飛ばすかのように、ファーストは微笑んだ。
 それは――あたしが今まで見たこともないくらい、どんな絵画や彫刻でも遠く及ばないほどの美しい笑顔で。

「そう。おめでとう」

「……ありがと。綾波」

 あたしは――不覚にも、感動してしまっていた。
 ファーストの透き通るように綺麗な笑顔に対しても、そして彼女の醜さなんかカケラもない綺麗な心に対しても。
 あたしはシンジの隣にいるあんたにあんな激しく嫉妬してたのに、あんたは祝福してくれるのね。
 ごめんね、ファースト。あたし、あんたのことずっと誤解してたみたい。
 人形みたいに感情のない冷たい女だって思ってたけど、あんた、あたしなんかよりずっと温かくって優しいイイ女だったのね。
 あたしたち――もしかしたら、これからは親友になれるかも。

「……えへへ。ありがと、ファー――」

 はにかみながらあたしはお礼を言おうとした。
 そのときにはすでに、ファーストの姿はそこにはなくて。

「じゃあ行きましょう、碇くん」

 いつの間にかシンジの手をしっかり握り締め、ファーストはすたすたと歩きはじめていた。
 あたしを置いてけぼりにしたまま。

「あ、あの、綾波?」

「遅刻するわ。急がないと」

「いや、でも、アスカが――」

「平気」

「いや、平気って言われても……」

「いなくても支障ないから。だから、平気」

「ってちょっと待ちなさいファーストッ!!」

「……なにか用?」

 わずらわしげに眉を潜め、ファーストがあたしを振り返る。
 こっ、こここここ、この女、マジでいい度胸してんじゃないのよぉっっっ!!

「あんた人の話聞いてなかったワケぇ!?
 シンジはあたしとつきあうことになったの!
 あたしシンジはこ、恋人同士なのよ! わかる!?
 あんたちゃんと恋人って意味理解してる!?」

「ええ。恋愛関係にある異性、あるいは同性を指して言う言葉」

「そう! つまりシンジの恋人はあたし! これはもう決定事項なの!
 あんたなんかの立ち入るスペースなんてこれっっっぱかしもないんだからね!
 だいたいなんであんたがシンジ手ェ握ってんのよ!」

「絆だから」

「ワケわかんないわよ!」

「途中で負けても最終的に勝てばいい。葛木三佐の言葉」

「なっ……!」

「本当に欲しいものは奪うくらいの意気込みで。赤木博士の言葉。
 だから奪うの。欲しいから」

 とんでもなくストレートなファーストの宣戦布告に、あたしもシンジも目を白黒させる。
 特にシンジは頬赤くしちゃって……多分、ファーストがそういう風に自分を見てるなんて考えたことなかったんだろうけど。

 それにしてもあの三十路ーズ、本気で余計なことしか言わないんだから!
 これでシンジがファーストのこと意識し出したらどうするつもりなのよ!

「と、とにかく! あんたがなんて言おうとシンジはもうあたしのモンなのよ!
 横からしゃしゃり出てきて泥棒猫みたいなマネすんじゃないわよ!」

「碇くん。今度の日曜日、靴買いに行くから一緒に来て」

「さらっと無視すんなー!
 しかもなにデートの約束までこぎつけようとしてんのよぉ!?」

「……セカンド、邪魔」

「それはあたしのセリフだっつーのよ!」

「あ、あの、お願いだから僕をはさんでケンカしないで……」

「うるさいバカシンジ!」
「碇くんは黙ってて」

「ハイ……」

 ああもうっ、せっかくシンジとハッピーエンドだと思ったのに!
 一瞬でもこんな女をいいヤツだなんて思ったあたしがバカだったんだわ!

 あたしはファーストと反対側からシンジの腕を抱え込み、ぴたりと体を密着させた。

「ア、アスカ!? ちょっとその、くっつきすぎ――わああ、綾波!?」

「ちょっとファースト、あたしのマネしないでよ!」

「ダメ。最後に勝つのはわたしだもの」

「ハッハーン! 勝手に言ってなさいっての!」

「ふ、ふたりとも、ちょっと離れてよ!
 恥ずかしいよこんなの!」

 真っ赤になったシンジの抗議なんて、もちろんあたしとファーストが聞き入れるはずがなくて。

 ふふん、上等だわ、ファースト。
 あたしもあんたに身を引かれて、譲られるみたいにシンジを手に入れるなんてまっぴらだしね。
 こうなったら、真っ正面からあんたとシンジの奪い合いやってやるわよ!

 ――おんなじ男のコに『磁力』向かう女として、共感できるものもあるしね♪

 そう、人と人とは多分磁石みたいなものだ。
 シンジとあたしの心が恋っていう名前の『磁力』で結ばれたみたいに。
 いつかきっと、あたしとファーストの心も、友情っていう名前の『磁力』で結ばれるかもしれない。
 ぶつかり合うってそのことは、お互いを認めてるってことだから。
 あたしとシンジみたいにね。
 だから、こんな関係も悪くない。

 ま、シンジとファーストの心が恋って名前の『磁力』で結ばれるなんてことは、あたしがいる限り絶っっっ対ゆるさないけど。

「あー! おっはよー、ヒカリ!」

 道の向こうであたしたちを見つめて固まっているヒカリに、あたしは元気よく手を振った。
 久しぶりだってのにヒカリの顔に喜びの色はなく、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えてる。

 青空の下に響き渡る、お約束のヒカリの絶叫。

 だけど、それってなんか、あたしたちの関係が特別だったてことを意味してるみたいで、なんとなく嬉しくて。

 あたしとシンジと、ファーストと。
 降り注ぐ陽光の中に3人の笑顔。

 

 第3新東京市は、今日も平和だ。

 

「どういうことよ碇くん! なに朝から堂々と二股かけてんのよ!
 碇くんがそんなフシダラな男の子だなんて思わなかったわ!
 女のコもてあそんで、サイッッッッッテー!!」

「い、いや、だからこれは……ア、アスカも綾波も、笑ってないでなんとか言ってよぉーっ!」

 ……ま、シンジにはちょっと気の毒かもしれないけど。
 こんな美人ふたりの心を独占してるんだから、税金みたいなものだと思ってあきらめてね、バカシンジ♪

 

 

☆おまけ☆

 後日、NERV本部のラウンジにおけるアダルト3人組の会話。

「……にしても、シンちゃんとアスカの『磁力』っていったいなんだったワケ?」

「さあ。どんなに頑張っても原因不明の解析不能。
 悔しいけれど、お手上げね」

「そんなに難しく考えることでもないんじゃないか?」

「あら。加持君、あなた原因の見当がついているの?」

「まあ、単なる推測だがね」

「ちょっとお、気になるわね〜。説明しなさいよ、加持」

「簡単なことさ。
 互いの心が互いを強く求めあったから、それが『磁力』って形で具体化した。
 互いの心が互いを求めあってることを理解してそんなものに頼る必要がなくなったから、『磁力』は消えた。
 ま、ちょっと過激で傍迷惑な恋心ってところかな」

「……」

「……」

「ちょっと加持くん、あんたそれ、本気で言ってんの?」

「いけないか? それなりに説得力あるだろ?」

「はあ……。アホらし。
 そんな少女マンガ見たな話、報告書に書けるはずないじゃないのよ」

「全くね。もう少しまともな意見を期待してたんだけど。
 加持君、ロマンチシズムも良いけれど、もう少し現実を見ないとこれから大変よ?
 あなたも良い加減、おじさんって呼ばれる年齢なんだから」

「そうそう。少しは腰落ち着けること考えなさいよね〜、お・じ・さ・ん」

「おいおい、ふたりとも俺と同年代だろ?」

「あら。男と女は違うわよ」

「そゆこと〜♪
 じゃね、加持くん。カップの後片づけ、よろしくねん♪」

「まだ煙草吸うでしょ? 灰皿、置いておくわね」

 加持は呼び止めることも出来ず、立ち去ってゆくふたりの背中を茫然としたように目で追った。
 やがて自分が一人きりになったことを思い出すと、煙草に火をつけ、肩をすくめて苦笑いを浮かべる。

「やれやれ……。女って生き物は夢がないねえ。
 恋心がロマンチシズムだってさ」

 自分の口から吐き出された紫煙が天井に吸い込まれていく様を見上げながら、加持は、せめてシンジとアスカにはあんな大人になって欲しくないものだと、愚痴のように胸中で呟くのだった。

 

〈おしまい〉

 

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